第3話 ハサミ鳥チョッキンとの契約
フェルトの森の朝は甘いけれど、絡まる。
ミナが眠っているあいだ、トックは森の中を小さく歩き回った。ミナの“やさしい囲い”の糸が、夜の露みたいに薄く光っている。囲いの外では星食い虫たちが、ぱ、ぱ、と羽を震わせて、距離を守りながら見張りみたいに集まっていた。怖いのに、どこか礼儀正しい。彼らは敵じゃない。仕事の途中で立ち止まっているだけだ。
トックはその羽音を背中に感じながら、朝ごはんを探した。
森には発明みたいな食べ物がいっぱいある。クッションパンのほかに、糸あめというのもある。木の枝にくるくる巻きついた糸みたいな飴で、引っぱるとびよーんと伸びて、口に入れるとすぐほどける。舐めていると、舌の上で細い糸がほどけて消えていく感じが、くすぐったい。
ミナにそれを見せたら、少し笑うかな。
そう思って、トックは屋台の糸あめを一本買った――買ったというより、糸で支払った。修繕屋の糸はこの世界の通貨みたいなものでもある。渡した糸は、屋台のおじさんのエプロンのほつれを直すのに使われる。
戻ろうとしたとき、トックは気づいた。
自分の糸が、いつもより長くほどけている。
たぶん昨夜、ミナを囲うためにたくさん縫ったからだ。糸が長いと、風に引っぱられやすい。引っぱられると、絡まる。
森のボタンの木の下を通った瞬間――
ぐいっ。
糸が枝に引っかかり、トックの体が引っぱられた。足がふわっと浮く。毛布が風に巻きつくみたいに、糸が木の枝と自分の腕にぐるぐる絡む。
「わっ……!」
トックは踏んばろうとして、さらに糸を巻きつけてしまった。
絡まりは、焦るほど増える。ジッパー渓谷じゃなくても、同じだ。
次の瞬間、糸はトックの胸のあたりをきゅっと締めた。
息が――というより、綿が、ぎゅっと詰まる。
体が小さくなる代償とは違う、“動けない怖さ”が来る。
「だ、だめ……ほどけ……」
トックは針を出そうとした。
でも、針を動かす腕が動かない。
糸が腕ごと縛っているのだ。
そこへ、羽音とは違う音がした。
チキ、チキ、チキ。
金属が擦れる、乾いた音。
森の甘い匂いの中に、冷たい匂いが混ざる。鉄の匂い。刃物の匂い。
枝の上から、影が落ちた。
鳥――でも羽は柔らかくない。
羽は金属の板みたいで、光を反射する。くちばしは、鳥のくちばしではなく――ハサミだった。二枚の刃が、開いたり閉じたりしている。足も細い針金みたいで、地面に刺さるように着地した。
「……ふん」
鳥は、偉そうに首をかしげた。
目は黒いビーズみたいで、感情が読めそうで読めない。
「なに、それ。自分で縫った糸に、自分が縛られて。修繕屋って、案外どんくさいんだね」
「だ、だって……風が……」
「風のせいにするんだ」
鳥は、くちばし――ハサミを、チキンと鳴らした。
その音が、森の縫う音とは違う決断の音で、トックは思わず身をすくめる。
「切ってあげよっか?」
トックの胸の奥がざわりとした。
切る。
切られた糸は戻らない。切ることは、終わらせることに似ている。
でも、このまま絡まっていたら、ミナのところへ戻れない。
「……あなた、誰?」
鳥は胸を張った。
「チョッキン。ハサミ鳥、チョッキン。壊すためのハサミだよ」
言い方が、拗ねていた。
自慢しているのに、怒っているみたいな声。
壊すため、と言った瞬間、チョッキンの刃が一瞬だけ震えた。ほんの一瞬。見間違いかもしれないくらい。
トックはそれを見逃さなかった。
切るのが好きな刃は、震えない。
震えるのは、怖いときだ。
「壊すため、って言ったけど……切るの、怖いの?」
「怖くないし」
即答。速すぎる否定。
「怖くない。だって、僕はハサミだもん。切って、壊して、終わらせる。そういう風に作られてる。……そうじゃないと、意味がない」
言葉の最後が小さくなった。
意味がない。
それは、捨てられたときに聞こえる言葉に似ていた。刺さる言葉。金属みたいに。
トックは、絡まった糸を見た。
糸はぐちゃぐちゃだ。ほどけば戻る。でも今は手が動かない。
切れば早い。でも切れば、どこかの糸は“短くなる”。短くなると、縫える範囲が減る。減ると、自分が削れる未来が早まる。
選択だ。
縫うだけでは解けないときがある。
ほどくにも、限界がある。
トックは深呼吸のまねをした。綿がきしむ。
そして言った。
「切るってね……壊すだけじゃないよ」
チョッキンが眉――みたいなものをひそめる。
「なに、それ。慰め?」
「ちがう。切るって、新しい形だね」
トックは、言葉を選びながら続けた。
子どもにもわかるように。大人には刺さるように。
「糸が絡まったままだと、ずっと“ぐちゃぐちゃ”のままなんだ。ぐちゃぐちゃって、息ができない。呼吸できない。……でも、切ると、ほどける。ほどけると、また結べる。結べると、別の形が作れる」
切る=編集。
いらない部分を捨てるのではなく、通り道を作ること。
手放す技術。
“無かったこと”にするのではなく、“ここまで”と区切ること。
チョッキンはしばらく黙った。
森の遠くで、モスの羽音がぱ、ぱ、と鳴る。
その羽音は「穴を増やす」音ではなく、「詰まりを取る」音だった。世界を呼吸させる音。
「……じゃあさ」
チョッキンが小さく言った。
「切ったら、君は困らないの? 糸、減るんでしょ。修繕屋なんでしょ」
トックは笑った。笑うと綿がふわっと緩む。
「困るよ。でも、困るからって、絡まったままだともっと困る。ぼくは“直さなきゃ”って言っちゃう癖があるけど……直すって、全部元通りにすることじゃないんだ。時々、形を変えることなんだ」
その言葉は、トック自身にも刺さった。
直さなきゃ、の奥にある強迫が、少しだけむずがゆくなる。
形を変える。
それは、怖い。捨てられる怖さに似ている。けれど、息ができる怖さでもある。
「……わかった」
チョッキンは、刃を少し開いた。
でもすぐ閉じた。チキン。
迷いの音。
「……切りすぎたら、終わっちゃうから」
「うん。だから、“切りすぎない”切り方にしよう」
トックは動かない手の代わりに、視線で糸の絡まりを辿った。
ここは枝に絡んでいるだけ。ここは自分の腕に巻きついているだけ。
切るべきは、一本。一本だけでいい。
チョッキンは、刃をそっと当てた。
乱暴に切れば、糸はバラバラになる。
でも、そっと切れば、糸は「ここから先」を手放すだけで済む。
チキ……ン。
音は小さかった。
決断の音ではなく、祈りみたいな音だった。
糸が一本、ふわりと落ちた。
落ちた糸は、地面のフェルトに触れると、すこしだけ色を濃くした。まだ想いが残っている糸だ。
絡まりが緩む。
トックの腕が動く。
胸の綿が、やっと息をしたみたいにふわっと戻る。
「助かった……!」
トックが言うと、チョッキンはぷいっと顔をそむけた。
「べつに。僕は壊すためのハサミだから。壊しただけ」
でも、声音は少しだけ柔らかい。
トックは落ちた糸を拾い、指先で結び目を作った。
切った糸は、捨てない。
結び直して、別の場所で使う。
手放したものも、循環へ戻す。モスがすることと、どこか似ている。
そのとき、チョッキンの刃に、なにかが光った。
ほんの一瞬。
赤い、塗料みたいな跡。
この世界の赤じゃない。
ボタン飴の赤でも、夕焼けの赤でもない。
もっと現実的で、硬い赤。乾いた赤。
「赤い屋根」を思わせる赤。
トックは思わず見つめた。
チョッキンは気づいて、慌てて刃を閉じた。チキン!
「見るなよ」
「……その赤、どこで?」
「知らない。最初からついてた。僕だって、嫌なんだ」
嫌、という言い方が、また拗ねていた。
嫌なのは、赤が現実の匂いを持っているからかもしれない。
嫌なのは、赤が“帰る道”を思い出させるからかもしれない。
遠くで、ミナの囲いの糸が、ふるりと光った気がした。
ミナが動いたのか。泣いたのか。
トックの胸の縫い目が、ちくと鳴る。
トックは、糸あめを握り直し、言った。
「ミナのところに来て。君の“切る”は、たぶん必要になる」
チョッキンは一瞬、怖がる目をした。
切ることが必要になる未来を、刃は知っている。
けれど次の瞬間、チョッキンは羽を広げた。金属の羽が朝の光を弾く。
「……契約だ。僕は壊すためのハサミ。壊れそうなもののそばにいるのが、仕事だろ」
言葉は強がり。
でも、足はちゃんとトックの隣に降りた。
歩き出したチョッキンの刃の内側に、さっきの赤がもう一度だけ瞬き――その赤の縁で、ジッと空が鳴りそうな気配がした。
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