第2話 空から降ってきた少女

フェルトの森の午後は、朝より甘い。


綿あめ雲が少し低くなって、木のてっぺんにひっかかる。雲の端っこをちぎって舐めると、ほんとうに砂糖みたいに甘い――と、森の子どもたちは言う。トックは舐めたことがない。修繕屋は、口を汚すと糸が絡む気がするからだ。けれど鼻先をくすぐる甘い匂いだけは、どうしても避けられない。


その甘い匂いの中に、今日は少し違う匂いが混ざっていた。

ぬれた布じゃない。焼きたてのクッションパンでもない。もっと――人の肌みたいな匂い。あたたかい息の匂い。


「……?」


トックが立ち止まったとき、森の奥でボタンの実が一斉に震えた。カタカタ、と小さな拍手みたいに鳴る。風が変わった。レースの葉が、ささ、と音を立てて伏せる。


そして、空が鳴った。


ジッ。


昨日も聞いた音。今日の朝も聞いた音。

でも今のは、もっと近い。耳のすぐ後ろでジッパーが滑ったみたいな、ぞわっとする近さ。


トックは反射みたいに胸の縫い目を押さえた。

ちく、と痛む。赤い屋根の言葉が喉の奥でころん、と転がる。


空に黒い線が走り、裂け目が開いた。

ほつれた布の端みたいに、縁が毛羽立ち、向こう側は――白い光ではなく、真っ白なわけでもなく、ただ「こちらではない」感じの暗さを抱えていた。


裂け目から落ちてきたのは、ゴミでも、ボタンでも、金属パーツでもなかった。


少女だった。


ふわり、というより、どさり、と落ちる。

空気を抱いたまま落ちる布人形みたいに、でも、布人形より重い。生き物の重さ。体温の重さ。


フェルトの地面に触れた瞬間、奇妙なことが起きた。


少女の手が、地面を押さえる。

その指の下のフェルトが、じわりと柔らかくなる。毛の向きがほどけて、色が濃くなる。今まで淡い黄色だった丘が、蜜を含んだみたいな深い金色に変わった。匂いも強くなる。洗い立てのタオルみたいな匂いと、ほんの少しだけ、ミルクみたいな甘い匂い。


世界が、少女の触れた場所だけ、生き返るみたいだった。


トックは、息をのんだ。

布の世界には、温度がある。でもそれは「想い」の温度だ。直接肌に触れてくる熱じゃない。なのに今、フェルトが、確かにあたたかい。太陽の熱ではなく、手のひらの熱だ。


少女は顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃだ。頬が赤い。唇が白い。服は――パジャマだった。小さな柄のついた、薄い布のパジャマ。布世界の派手な色の中で、そのパジャマだけが、どこか現実の匂いを引きずっている。


「……どこ……?」


声はかすれていた。

その声の後ろに、別の音が混ざる。


ピ、ピ、ピ、ピ……


一定の間隔で鳴る、規則正しい音。

森の鳥の鳴き声でも、ボタンの実の揺れる音でもない。硬い音。冷たい音。耳の奥を叩く音。


トックの背中の毛が、ぞわりと逆立った。

この音は、ここにあってはいけない。

布世界の空気の中に、針みたいに刺さる“異物”だ。


少女は息を吸い、吸い損ねて、また泣いた。

泣きながら、でもどこかで怒っているみたいに、声を絞る。


「帰らなきゃ……赤い屋根の家に……!」


赤。


その言葉を聞いた瞬間、トックの胸の縫い目がまた、ちくりと痛んだ。

赤い屋根。赤い屋根。

知らないはずなのに、知っている気がする。思い出せないのに、手だけが覚えている気がする。


少女――ミナは、フェルトの地面に手をついたまま震えた。震えるたび、触れている場所が柔らかくなる。色が濃くなる。匂いが戻る。まるで、世界が彼女の体温で、ほどけ直しているみたいに。


「……あったかいね」


トックがぽつりと言うと、ミナは首を振った。


「あったかくない。こわい。……帰らなきゃ」


こわい。

その言葉が落ちた瞬間、ミナの体温が揺れた。


揺れると、世界も揺れる。

フェルトの糸が縮み、縫い目が歪む。丘の表面がきしみ、ボタンの木がカタカタ鳴る。レースの葉が、ぱらぱら落ちる。まるで、布が引っぱられて裂けそうになるみたいに。


トックは気づく。

この子は、この世界の住人じゃない。

この子だけが、安定した“人間の体温”を持っている。体温は接着剤だ。現実と布世界を、無理やりくっつけてしまう力だ。だから柔らかくなる。色が戻る。匂いが濃くなる。

でも、心が乱れれば、その接着剤は逆に張りつめて、縫い目を歪ませる。


「だいじょうぶ。ここは……フェルトの森だよ」


トックは、言葉で縫おうとした。

でも、ミナの涙は止まらない。涙は熱いのに、落ちるとすぐ冷たくなる。矛盾の涙だ。


そのとき、森の奥から羽音が近づいてきた。


ぱ、ぱ、ぱ、ぱ……


小さな音が、たくさん。

星食い虫――モスだ。


モスたちはいつも通り、穴を掃除しに来ているだけだ。増えすぎた記憶を分解して、世界を詰まらせないための仕事。悪じゃない。摂理だ。

けれど今日のモスは、いつもより速い。いつもより必死だ。


匂いに引っぱられている。

ミナの体温の匂いに。


モスは、温度を持たない世界の住人だ。だからこそ、熱を嗅ぎつけると集まってしまう。熱は、糸をほどきやすくするから。循環を促すから。

それは正しい。世界の仕組みとしては。


でも、今のミナに、それは怖すぎる。


「いや……来ないで!」


ミナが叫んだ。

叫ぶと、糸が縮む。縫い目が歪む。足元のフェルトが波打ち、森がぐらりと傾く。

モスたちは驚いて羽を震わせる。驚いて、さらにざわざわする。ざわざわすると、ミナはさらに怖くなる。


怖さが、怖さを呼ぶ。

穴が、穴を呼ぶ。


トックの胸の奥の強迫が、目を覚ました。

直さなきゃ。塞がなきゃ。守らなきゃ。

でも、それは“相手のため”だけじゃない。守っていないと、置いていかれる気がするからだ。捨てられた悲しみが戻ってくる気がするからだ。


トックは針を取り出し、自分の糸を引いた。


「ミナ、こっち……!」


彼は攻撃のために縫わない。

“やさしい囲い”を縫う。


ミナの周りに、糸で小さな輪を作る。輪は柵になる。壁になる。でも硬い壁じゃない。ふわりとした距離。モスがぶつかっても痛くない距離。ミナが息をできる距離。


すっ、すっ。

縫う音が、森のざわめきの中で小さく響く。


ミナの手のひらが、偶然トックの腕に触れた。

触れた瞬間、トックの毛が少し柔らかくなった。色が濃くなった。テディベアの布が、ほんの少しだけ“生きていたころ”の匂いを取り戻す。

その感覚に、トックは震えた。懐かしいのに、怖い。


ミナは泣きながら、でも手を離さなかった。

泣きの場面は、手に戻る。

手は、温度を渡す。温度は、糸をゆるめる。ゆるむと、世界は呼吸を取り戻す。


けれど次の瞬間、ミナの胸の奥で、別のものが動いた。

罪悪感の影。言えない言葉の影。未完了の影。


「私、……」


言いかけて、ミナは息を詰めた。

体温が乱れる。糸が縮む。トックが縫った囲いの糸が、ぎゅっと引きつって歪む。輪が楕円になる。縫い目が波打つ。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ!」


トックは糸を結び直す。結び目を増やし、歪みを押さえる。

でも結び目を増やすほど、囲いは窮屈になる。呼吸が詰まる。直しすぎると、世界が息苦しくなる。

その矛盾が、まだ小さな痛みとして、トックの手の中で震えた。


モスたちは囲いの外側で、ふわふわと漂う。

彼らは入ってこない。入らないように縫ったからだ。

けれど彼らの羽音は、必死だ。まるで、「ここを通さなきゃ、どこかが詰まる」と訴えているみたいに。


その羽音に混じって、また、あの硬い音がする。


ピ、ピ、ピ、ピ……


規則正しい機械音。森の甘い匂いに、冷たい白が混ざる。

ミナの顔が歪み、目がぐらりと焦点を失う。

境目にいる子の、揺れる目だ。


そして、ミナは、寝言みたいに呟いた。


「……ごめんなさい……」


誰に?

何に?

トックが問いかけようとしたとき、ミナはまた泣き出して、「赤い屋根の家」を握りしめるみたいに肩をすくめた。


トックは、針を持つ手を止めなかった。

止めると、糸が縮む。世界が歪む。ミナが落ちる。

だから縫う。縫って、距離を作る。守る。


ただ、その守り方が、いつか「終わらせる縫い方」に変わることを、トックはまだ知らない。


囲いの外で、モスたちがミナの匂いに向かって静かに集まってくる。怖いのに、どこか必死な動きで――その羽音の隙間に、ほんの一拍だけ、ジッという裂け目の予感が混ざった。

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