第1話 修繕屋トックの朝

フェルトの森の朝は、やわらかい匂いがする。


地面はフェルトの丘で、朝露のかわりに、ふわふわした綿の粒がきらきら光っている。風が吹くと、その粒は舞い上がって、まるで粉砂糖みたいに鼻の先にふわりと落ちる。くしゃみをすると、森の木々――ボタンの実をつけた木が、カタカタと笑うみたいに揺れた。


空には、綿あめ雲。

ちぎれた端っこがふわふわで、甘い匂いがする。雲の影は、レースみたいに薄くて、地面に模様を落とす。そこへ、朝ごはんの匂いが混ざってくる。


クッションパンだ。


パンなのに、ふかふかで、押すと沈む。焼き色は薄い金色で、表面は縫い目みたいな焼き目がついている。森の小さな屋台では、パンを手のひらでぽんぽん叩いて、形を整えてから売っていた。切ると、中から綿みたいな白い生地がふわっと出て、そこにボタンの蜜を垂らすと、じゅわっと甘くなる。


子どもが見れば「おいしそう!」で終わる景色。

でも、その“白”は、どこか刺さる白じゃなくて、安心の白だった。


トックは、その屋台の前を通り過ぎる。

お腹が鳴ったわけではない。鳴りそうになったのを、ぐっと押さえたのだ。


修繕屋の朝は、食べる前に、穴を探すところから始まる。


フェルトの森は、毎日ちいさく呼吸する。

呼吸すると、どこかがほつれる。ほつれると、穴が開く。穴は悪じゃない――この世界の決まりだ。穴があるから、風が通る。穴があるから、古い糸がほどけて、新しい布が生まれる。


それでも。


トックの目は、穴を見つけると、勝手に止まってしまう。


丘の斜面に、針で刺したような小さな穴があった。縁の糸がふわふわ飛び出している。穴の奥から、かすかに羽音がする。星食い虫――モスが、もぐもぐと糸をかじっているのだ。


「……おはよう」


トックがそう言うと、モスはびくりと羽を震わせた。

怖がっているのではない。仕事の途中で声をかけられて、ちょっと驚いただけ、みたいな動きだった。


トックは針を取り出す。

針はいつも手の中にある。どこから出したかは覚えていないのに、握ると落ち着く。糸も同じだ。胸の縫い目のどこかから、すうっと引き出せる。糸はぬるい。体温ではなく、もっと別のぬくもり。思い出みたいなぬくもり。


トックは穴の縁に針を入れた。


すっ、すっ。


針がフェルトを抜ける音は、安心の音だった。

小さな歯車が正しい場所にはまるみたいに、胸の中のざわざわが、少しだけ静かになる。


一針。二針。

穴の縁をたぐるように、糸で結ぶ。


きゅっ。


結び目を作った瞬間、穴はすこし小さくなった。

モスが残した“余白”が、トックの糸で押さえられる。


「……これで、いい」


そう言ったとき、トックの体が――ほんの少しだけ、軽くなった。


いや、軽くなったというより、小さくなった。


自分の腕の長さが、ほんの針一本ぶん縮んだ気がする。

お腹の綿が、ぎゅっと詰まって、きしむ。

耳の端が、ほんの少し薄くなる。


代償。


トックはそれを知っているのに、止められない。

穴を塞ぐたびに、自分の糸が減る。糸が減るたびに、自分が削れる。なのに、針を動かす手は止まらない。


利他の顔をした行為の裏に、別の顔がいる。

“君のため”と言いながら、ほんとうは――

直していないと、怖い。

直していないと、背中から冷たい「さようなら」が近づいてくる気がする。刺さった金属が、また深く入ってくる気がする。


トックは次の穴を探し、次の穴を縫う。

小さい穴。小さい不安。小さい息苦しさ。

縫い目の数だけ、安心が増える――はずだった。


けれど、その朝は、縫っても縫っても、胸の奥が静かにならなかった。


森の奥のほうで、モスたちがざわめく。

いつもより多い羽音が重なる。

それは「仕事が増えている」ざわめきだ。循環が詰まりかけて、免疫が走っているざわめき。


トックは針を止めて、耳をすませた。


……聞こえる。


遠くの遠くで、空が鳴る音。


遠雷ではない。

もっと細くて、もっと鋭い。


ジッ。


ジッパーの音。


森の木々が一斉に震えた。ボタンの実がカタカタ鳴って、落ちる。綿あめ雲の影が、ほんの一瞬だけ、濃くなった。


トックは空を見上げる。


青いはずの空に、黒い線が一本、走りかけている。

線はすぐ消えた。消えたのに、空気が変わった。

布が引っぱられる前の、いやな緊張。縫い目が縮む前の、きしみ。


トックは、胸の縫い目を押さえた。


ちく。


針で刺したような痛みがした。

赤く光りそうで光らない、あの縫い目が、指先の下で脈を打つ。


「だめだ……」


声が漏れる。だめだ、開くな、落ちるな、来るな。

命令の言葉。お願いの言葉。どちらでもある。


トックは、さっき塞いだ穴を見た。

穴はきれいに縫われている。けれど、その縫い目の向こう側から――


白い光が、じわりと漏れていた。


布世界の白じゃない。

クッションパンの中身みたいな安心の白じゃない。

目に刺さる白。冷たい白。音が硬い白。


光は、穴の縁の糸をほんの少しだけ固くする。

フェルトが、布ではなく紙みたいに感じる。

針を刺したくない、と思う。刺したら割れそうだから。


トックは目をそらした。


見たら、引っぱられる。

見たら、縫い目がほどける。

見たら、あの硬い世界の雨が、ここに降ってくる。


「……見ない」


それは勇気ではなく、怖さの選び方だった。

見ないことで、今は縫える。今は動ける。今は安心できる。

その「今」を守るために、未来のほつれを見ないふりにする。


モスの羽音が、また近づく。

穴の近くに集まって、もぐもぐと糸を食べる。彼らは敵じゃない。掃除屋だ。世界が詰まらないように、余分な記憶を分解する。

けれど今日の羽音は、少し焦っているように聞こえた。


トックは針を握り直した。


すっ、すっ。


縫う音が森に溶ける。

縫う音は安心だ。安心は、痛みを忘れさせる。

忘れることは裏切りじゃない――と、誰かが言ったような気がする。まだ知らない誰かの声。糸の本の声。


縫い目が増えるたび、トックはすこしずつ小さくなる。

なのに、針を止めると、もっと小さくなってしまいそうで怖い。


空のどこかで、また――


ジッ。


音がした。


今度は少し、近い。

森のレースが震え、ボタンの実がまた落ちた。

トックの胸の縫い目が、もう一度だけ、ちくりと痛んだ。


その痛みは、赤い屋根を呼ぶ前の、合図みたいだった。

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