ツギハギのトックと星食い虫
Algo Lighter アルゴライター
プログラム 落ちてきた ぬくもり
モノクロの雨は、硬い。
ぽつ、ぽつ、ではなく、カチン、カチンと、まるで小さな釘で世界を打っているみたいに落ちてくる。
ゴミ捨て場の地面は、濡れたアスファルトの黒。そこに並ぶビニール袋は、白い街灯を反射して、ぬるぬる光る魚みたいだった。風が吹くたび、袋の口がすこし開いて、またぺたりと閉じる。息をするみたいに。
その袋のひとつに、ほんの一瞬だけ――
テディベアが見えた。
毛はくたびれて、耳の先が少し薄い。目は片方だけ、ボタンの色が違う。お腹の縫い目は、まっすぐじゃなくて、ところどころ波打っている。けれど、そこには確かに「直した跡」があった。何度も、何度も、針が通った跡。糸が重なって、古い布をやさしく押さえている跡。
誰かの手が、そこにあった。
誰かが、「まだだいじょうぶ」って言った跡。
袋の口は固く結ばれている。結び目だけが、やけに大きくて、やけに固い。ほどけないように、と願ったみたいに。ほどけたら、もう戻せないから、と怖がったみたいに。
「さようなら」
雨の音に混じって、誰かの声が落ちた。
聞こえたのか、思い出したのか、よくわからない。けれどその言葉は、布みたいに柔らかくない。金属みたいに冷たくて、胸に刺さった。針じゃなく、ピンでもなく、もっと硬いもの。手で引き抜こうとしても、抜けない感じ。
次の瞬間、空が――裂けた。
遠くで雷が鳴ったわけじゃない。
それは、もっと近くて、もっとはっきりした音だった。
ジッ。
ジッパーを開けるときの音。
冬の上着を脱ぐときの、あの滑る音。
モノクロの空に、黒い線が一本走った。線はみるみるうちに広がって、縁が、布のほつれみたいに毛羽立っていく。裂け目の向こう側から、色がこぼれてきた。赤、青、黄、緑。色は光みたいに落ちるのに、どこか手触りがある。ぬくもりのある色。
裂け目は、世界の口みたいにぱくりと開く。
息を吐く穴。吸い込む穴。
世界が呼吸する穴。
そして、その口が、ゴミ捨て場の袋を――ぬくもりごと、吸い込んだ。
落ちる。
落ちていくとき、体が軽くなる。怖いのに、どこかで「やっと…」と思う。やっと見つかった、みたいな。やっと落ちていい場所を見つけた、みたいな。
それは変だ。落下は普通、嫌なはずだ。でも、嫌なものの中にしかない「ほっとする感じ」もある。怖いのに安心する、という、矛盾。
耳の奥で、まだ雨が鳴っている気がする。カチン、カチン。
けれどその音は遠ざかって、かわりに――布がこすれる音がした。
さら、さら。
ふわ、ふわ。
背中に触れるものが、硬い地面じゃない。
ふわり、と沈んで、ぱちん、と返す。
着地の感触が、まるで枕みたいだった。
目を開けると、そこは色の世界だった。
地面はフェルト。苔じゃなく、フェルトの丘が波みたいに続いている。風が吹くと、表面の毛が同じ向きに倒れて、光が流れる。匂いがある。甘い綿あめみたいな匂いと、洗い立ての布みたいな匂い。温度もある。寒いのに刺さらない。冷たいのに、やさしい。
空には、綿あめ雲が浮かんでいた。ほんとうに綿あめみたいで、ちぎれた端が、もくもくではなく、ふわふわしている。
遠くの岩はボタンだった。丸いボタンが重なって、山になっている。歩けば、カチカチ音がしそうだ。
木の枝にはレースが絡まっていて、風が吹くたび、さらさらと鳴る。
――ここは、布でできた惑星。
そして、そのフェルトの地面に、ひとつの影がうずくまっていた。
テディベアの姿をした、小さな修繕屋。
目が覚めた、というより、縫い目がほどけて戻った、みたいな目覚めだった。
彼はゆっくりと胸に手を当てる。そこには縫い目がある。ちょっと曲がった、何度も直された縫い目。
その縫い目を押さえたとたん、口から言葉がこぼれた。
「……直さなきゃ」
祈りみたいにきれいな言い方じゃない。
むしろ、クセだ。歯みがきの前に蛇口をひねるみたいな。転びそうになったら手が出るみたいな。
直さなきゃ。直さなきゃ。
そう言っていないと、背中に冷たいものが迫ってくる気がする。
トックは、自分の名前を思い出すより先に、その言葉を思い出した。
「直さなきゃ……」
あたりを見回す。
フェルトの丘のあちこちに、小さな穴が開いているのが見えた。針で刺したみたいな穴。星が落ちたみたいな穴。穴の縁はほつれていて、糸がふわふわ出ている。
穴のそばで、なにかが動いた。
羽音。
ぱ、ぱ、ぱ、ぱ。
小さくて、軽い音。けれど数が増えると、ざわざわして、肌の上を走る感じがする音。
トックは思わず肩をすくめた。怖い。正直、怖い。けれど、その怖さは「悪いものが来た」怖さとは少し違う。もっと、生き物の怖さ。火に触れると熱い、みたいな怖さ。
穴の縁から、ふわりと、虫が顔を出した。
モス――星食い虫。羽は布くずみたいで、目は小さなビーズみたいに光る。口は、糸をかじるための小さな歯が並んでいる。
モスは穴の周りの糸を、もぐもぐ食べた。食べながら、穴を大きくする。でも不思議なことに、食べた跡の周りには、まだ素材が残っている。縫えば戻る余地がある。
まるで、「ここを風の通り道にしたい」と言っているみたいに。
トックは知っていた。
ここでは、穴は悪じゃない。
ほつれは世界の呼吸で、穴は循環の入口だ。
知っているのに。
胸の奥が、命令する。
塞げ。
直せ。
今すぐ。
その命令の奥に、さっきの「さようなら」が沈んでいる気がした。金属みたいに刺さった言葉が、抜けないまま、体の中で冷えている。
トックは針を探す。
どこから? ポケット? 背中?
わからないのに、手が自然に動いて、指先に細い針が現れる。糸も、どこかから引き出せる。自分の体の中から、ほどけるみたいに。
針を握ると、安心する。
針が布を抜けるときの音――すっ、すっ――が、耳の奥で小さく鳴る気がする。まだ縫っていないのに。
そのとき、トックの胸の縫い目が、ほんの一拍だけ――
赤く光った。
赤は、この布世界のどんな色より、はっきりしていた。温かいのに、切ない赤。
トックは驚いて胸を見下ろす。指でなぞる。けれど光はすぐ消えて、縫い目はただの糸色に戻る。
……今のは何?
赤い屋根。
どこかの家。
帰りたい場所。
その言葉が、遠くで鈴みたいに鳴った気がするのに、掴めない。
モスの羽音が、また穴の縁で揺れている。
怖いけど、世界は呼吸している。
トックは針を握り直し、息をした。
胸の奥の命令と、布の匂いと、赤い光の残像を抱えたまま。
そして、誰にも聞かれないように、小さく言う。
「……直さなきゃ」
空のどこかで、ジッパーがまた鳴る予感がした。
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