後編
「いくつか謎があるんですが」
若中谷詠太郎、松浦風月そして長内由規の三人は大学に程近い公園にいた。
「高橋遥子さんの死亡推定時刻は十一月の六日午後九時から十一時の間。赤ん坊が死亡したと思われるのは同十二日。作家の元に届いた手紙の消印が五日。長内先生のもとに小包で包丁が届いたのが九日です。どういうことやと思いますか?」
「じゃあその包丁は凶器じゃないってことか? その包丁が彼女のものだって言う証拠はあったのか」
ぐるりと植わっている丸坊主の桜の木々を見上げ、風月は尋ねる。少し離れたところで警察と思しき一団が作業をしている。おそらく赤ん坊が発見された現場なのだろう。
「間違いはないよ。柄のところに付いていた傷に見覚えがあったからね」
長内の答えを聞き、詠太郎は次の疑問をぶつける。
「長内先生、包丁は何のために送られてきたんでしょうか?送り主は彼女……高橋さんだったんですよね?」
「何のため……?ぼくにはさっぱり……」
「夢を見たんはいつだったんです?」
「あれは……十一月に入ったばかりの頃だったかな」
「夢に出て来た樹とあの樹は同じだったんですか」
そう言って詠太郎は警察がいるあたりを見やる。
「ああ……多分……いや、ほぼ同じや」
「先生、僕は何の証拠を持っているわけでもない。当て推量と言われても仕方ない。でも、説明はつく」
「話せよ、詠太郎」
風月が促すと、詠太郎は言いにくそうな顔をした。
「僕は時間のズレに気づいた時、警察に頼んで調べてもろたんです。彼女の部屋の冷蔵庫の中を。そしたら冷蔵庫の中から赤ん坊が来ていた服のものと同じ繊維が検出されました」
「遺体を凍らせて死体現象を遅らせたってことか!」
風月は声をあげる。
「それじゃ……遥子が?」
「死体から包丁を抜いて小包にしたのは彼女やと思います。でも刺したのは違う。もし彼女が刺したんだとして、なぜ先生に凶器を送りつける必要があるんです?」
そう言いながら詠太郎は撤収を始めつつある警察の方へ、桜の樹の近くへと少し歩を進める。
「先生の見たっていう夢の中にはありそうにないことがふたつあります。赤ん坊を刺した時に血がでなかったこと。そしてもうひとつ、秋なのに桜の花が舞ったことです」
「そうだよ……そんなことはありえない」
長内はつぶやくように言って力無く首を振る。
「どこまで本当に夢やと思ってるんです?」
詠太郎は静かに問うてみる。長内はゆるゆると顔をあげた。
「本当にわからないとでも言うんですか。凶器が栓の役目をしたんです。だから血はほとんどこぼれんかった」
風に枝が揺れる微かな音がした。詠太郎は待ったが沈黙は破られなかった。
結局口を開いたのは風月だった。
「夢じゃなくて現実で刺した可能性……ってことか」
揺れる桜の枝に見入ったまま詠太郎は静かに、しかしはっきりと言った。
「なんで赤ん坊を殺したんですか。……生まれてくるべきやなかったとでも?」
「彼女はあなたに突き飛ばされた時にはまだ死んでいなかった。慢性硬膜下出血というやつは、外傷直後は症状を表さないこともある。よく交通事故なんかでその時は平気な顔をして帰ってって、晩になって容態が急変して死んでしもうたりする、あれですよ。……そう、その時彼女は気を失っただけで、後で息を吹き返してあなたを追いかけた。そして見たんです。赤ん坊を埋める先生をね」
「……」
「そこで止めなかったのはおそらく彼女があまりのことにそこでも失神してしもたからやないかと思いますが、先生の方は彼女に気づかないままその場を立ち去った。それから意識を取り戻した彼女が赤ん坊を掘り出して連れ帰ったんです。だって彼女の子どもやったんやから」
長内の顔は凍りついたようにこわばっていた。詠太郎はずっと樹を見つめたままだった。まるで闇の中に黒い鳥の姿を見極めようとするかのように。
「ちょっとまて詠太郎、それは一体……」
「手紙」詠太郎はじれったそうに言った。
「手紙も小包も、それがなんの為に存在すると思うんや? 告発や。その相手は赤ん坊を殺した人間に他ならんやろ……どっちにしろ」
ふっと言葉を切り、あらためてゆっくりと言葉を繋いだ。
「証拠はなにひとつない。だから俺はここで……待ったんや」
彼の言葉に風月と長内がふたりして口を開きかけたちょうどその時、ふわりと小さな何かが落ちてきた。
「あ……っ」
「秋に桜が咲くこともあります。群馬などの某所には秋にしか開花せんものもあるそうです。先生、ありそうになくても起こることはあるんですよ。夢やなくてもね」
詠太郎が話しているうちにも桜の花は一輪また一輪と開き始め、そして散り始める。風月は呆然として季節外れの花を見つめ、長内は力無くその場にへたり込む。
「まさかそんな……そんなバカな……夢や、こんなこと……夢やと思ったのに……」
泣き笑いのような声で呟く長内の前にひらひらと桜の花びらが舞い落ちた。
「真面目すぎて、信じがたいことを目の当たりにした時にそれを現実と捉えることができなかったんだな、長内は……」
翌日、法医学教室にやってきた風月はそう呟いた。
「赤ん坊の心臓に奇形があるって、長内は早くに気づいてたのか」
司法解剖により、赤ん坊の心臓に心室中隔欠損という奇形がある事が判明していた。
「そうかもしれん。だから短絡的に殺そうとしたんやろう」
死んだ方がこの子のためだと思ったこと、遥子まで殺すつもりはなかったこと——。彼女を突き飛ばしてから赤ん坊を埋めたところまでは、詠太郎の推測通りだった。
「悪いことは心の隅に追いやる——多かれ少なかれ誰でもすることや。そうやって嫌なことを少しずつ忘れていくんや。ただ、彼の場合……多分罪悪感からやろな、逃避してしもたんや。なかったこと、夢やということにしてしもた。そないせんかったら平成が保っとられへんかったんやろう」
桜の下に赤ん坊が見つからなかった日の夜、長内はもう一度高橋遥子のアパートを人知れず訪れた。その時彼女は亡くなっていたという。
彼は冷凍庫に入れられている赤ん坊を見つけ、包丁がないことに気がついた。しかし刺創はある。遺体が彼女だけなら自然し、あるいは事故死として片付くかもしれないと考え、赤ん坊を連れ帰った。そしてさらに自宅の冷凍庫に数日置いた後、桜の樹の下に埋めたのだった。
「包丁はなんであとから届いたんだ?」
「転送になっとったみたいやな。彼女が知っていた住所から、長内先生は引っ越してしもてたから……だから届くのに時間がかかったんや」
「でも、証拠だぜ? みすみす犯人に渡すなんて……」
「おまえが言うたはずや。父親はおそらく先生やって。彼女にしたって信じたないやろ、わが子を殺して埋める父親……愛した男が、自分の子どもを殺すなんて。……自首、して欲しかったんとちゃうやろか」
詠太郎はそう言って、机の上に置いていた一輪の桜の花をそっと手にする。昨日咲いていた桜を拾ってきたものだ。
「生まれてくるべきやなかったなんて……言うたらあかん」
「許せなかったんだろな、きっと。手紙は一種の保険だったのかもしれないな、長内が黙殺した時のための」
「多分彼女も読んだんやろな、『桜月夜』を」
ふたりは暫く黙って詠太郎の手のひらにある桜の花を見つめていた。やがて風月が口を開く。
「なあ詠太郎、なんて書けばいい?」
「なにを」
「この桜のことだよ。なんでこんな季節外れに花が咲くんだ?」
「俺が知るわけないやろ。……きっと、見過ごすわけにはいかへんかったんとちゃうか、この桜も」
「そういうもんか?」
「そういうもんや、ということにしとこうや」
実際のところは誰も何も知りはしないのだ。何かを言ってもそれは推量の域を出はしない。風月も詠太郎もそれをわかっている。ただ、あの樹がそういう樹だと知っているだけだ。
「こりゃ記事になんねえかもな」
「事実だけ書けばいいやろ。桜が出てこんでも事件のことは伝えられる」
「そうか……そうだな」
風月はぽん、と労うように詠太郎の肩を叩き、じゃあなと言って部屋を出て行った。
手のひらに残った小さな花を詠太郎はそっと紙で包み、机の上にあった法医学便覧のページに挟みこむと、再び目の前の書類へと向き直ったのだった。
—了—
さくら花うつろう夜は —1993— 沖一耕矢_Kotaro @Kotaro20590
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