さくら花うつろう夜は —1993—

沖一耕矢_Kotaro

前編

     *     *

 その樹は関西の某大学の近くにある公園に植わっていた。深まる秋のたった一夜だけ花を散らす桜。その姿に知らず焦がれるようになっていた。

 秋に桜が咲くこともある。だがそれには気温などの条件が必要であり、件の桜はその条件を満たしてはいないという。

「この桜は……猫を埋めた時にも花を散らせましたよ」

そう言って若者は樹を仰ぎ見た。

     *     *



 「やっぱりここにいたな、詠太郎。今あいてるか?」

突然の闖入者などここでは日常茶飯事である。そんなわけで、法医学教室の隅の机でとぐろを巻いていた若中谷詠太郎は振り向きもせずに手を振って答えた。「今はあかん」

「何してんだ?」

「……誰が入ってええ言うた? あかん言うたやろが、風月」

いつの間にか背後に忍び寄って来ていた松浦風月を見上げて詠太郎は文句を言った。少し癖のある前髪をかき上げてため息をつくと、改めて風月の方へ向き直り尋ねる。

「今日は何の用や」

「おまえのおつむを借りたいんだよ。夢中殺人と桜の花について、な」

そう言うなり風月は詠太郎の腕を取り、廊下へと引っ張っていった。

「おい、ちょっと待て、まだ鑑定書途中やねんけど!……おい風月!」

階段を降り、大学の中庭に面した出入り口の手前で風月は立ち止まり、自分の足に躓いてつんのめる詠太郎を支えてやりつつ顎で前方を指し示した。

中庭にひとり、こちらに背を向けて所在無さげに立つ姿。見覚えのあるその姿に詠太郎はつぶやく。

「長内先生……か?」



「覚えてるか詠太郎、去年の冬、うちの雑誌に『桜月夜』っていうエッセイ風の掌編が載ったのを」

「……覚えとう」

風月は大阪にある出版社が発刊している月刊誌の記者をしている。最近は主に刑事事件の記事を書いていたはずだ。

「秋だってのに桜が花を咲かせたって聞いて見にくる話だ。もっとも花が咲いたのは1日こっきり。しかもその夜のうちに散っちまって作家先生は見ることが出来なかったようだが」

「それが長内先生と何の関係が……」

「その作家先生のところに手紙が届いたんだ。かの樹の根元に赤ん坊が埋まってるってな。そして赤ん坊を弔うかのように桜が舞ったと書いてあった」

「なんやって……?」

「昨日その作家が編集部に来てな、担当者にもう一度この樹について書きたいって言うんだよ。で、手紙の内容のこともあるしってんで俺が引き合わされて。その時に手紙を見せてくれたんだが、差出人の名前に見覚えがあった」

詠太郎は風月をチラリと見、中庭の人影に視線を戻す。

「……死んだ女やったんか」

「ああ、高橋遥子……長内氏の元恋人だ」

「司法解剖でこっちに廻って来た。硬膜下出血やった」

十日前の高橋遥子の解剖の時、詠太郎は遺体に取り縋って泣き続ける長内を引き剥がさなければならなかった。この大学で非常勤講師をしていた長内由規はそれ以来休職中である。

「たしか赤ん坊がいなくなっとったな」

「そう、その赤ん坊を殺して埋める夢を長内氏が見たんだ。そしたら数日後に彼女が死んで赤ん坊が行方不明だ。それだけならともかく、長内氏の元に小包まで届いた」

風月は言葉を切り、詠太郎をまっすぐに見つめた。

「夢で見た凶器……彼女の包丁がな」



夕闇の中で見る長内由規の顔は、詠太郎が覚えていたそれよりはるかに青白かった。

「十一月の初めの頃やったと思う……よく覚えてなくてすまんな、若中谷」

長内はそう前置きをして夢の内容を語る。

遥子の部屋を訪れた時に赤ん坊のことで口論となり(長内は具体的な内容は伏せた)彼女を突き飛ばしてしまった。ぐったりとした遥子を見て殺してしまったと思い、赤ん坊だけ残されても生きてはいけないだろうと台所の包丁をその小さな胸に突き立てた。そして近くの公園の桜の樹の根元に埋めて隠した。

「誰かに見られたら……猫を埋めてるって言うつもりやった。でも誰もやっては来なかった……。ただ、桜が吹雪みたいに降って来たんや……。それから後はよく覚えてなくて、気づいたら自分の家に帰っとった」

何かに怯えているような様子に、長内の真面目で少し臆病さのある性格を思い出して詠太郎は無理も無い、と思いつつ、そっと嘆息して再び長内の話に耳を傾ける。どこか遠くで電話の音が聞こえていた。

「血は出なかったけれど、感触が生々しかったんで……後になってよく似た樹を近くで見つけて、下を掘ってみたけど……何も埋まってなかった」

ふいに背後の大学校舎の一角が騒がしくなった。その騒がしい部屋の窓が開き、覗いた人影が詠太郎を見つけた。

「おい、赤ん坊が出たぞ。すぐ戻ってこい」

聞くなり詠太郎は風月と長内を振り返り、呆然とするふたりをその場に残して校舎へと駆け込んでいった。




 亡骸を前にして詠太郎は新たな謎にぶち当たったことを痛感していた。「ひとつ解決するとまた次の謎が出てくる。まるでイタチごっこやな」

死体は死後およそ六日経っており、胸に深い刺創があった。正確に心臓を一突きしている。凶器は見つからなかったらしい。身につけていたベビー服に名前が入っていたこともあり、DNA鑑定待ちではあるが高橋遥子の子どもにほぼ間違いないと思われた。

やって来た刑事がふたり、廊下で検察医に所見を尋ねている脇をすり抜けて詠太郎は外へ出た。刑事のひとりが一瞬視線を寄越したが、こちらを大学院生と知っているのでそのまま通してくれた。

ひどくやるせない。長内も風月もなにもかも放り出して帰りたくなっていた。思わずこのまま中庭を突っ切っていこうかとしたその時、背後から呼び止められた。

「詠太郎。まさか俺らのこと放って帰る気か?」

しかたがない。観念した詠太郎は嘆息する。

「長内先生の夢と大きく矛盾はしてへんかったけど……」

部外者である風月に語ってやれることは多くはない。

逆に風月の方から新たな情報がもたらされる。

「……高橋遥子が自分でお産したって知ってるか」

「産院で産まずにってことか」

「ああ」風月は淡々と語りだす。

「おそらく父親は長内氏だと思われるが、彼女は誰にも言わなかったらしいんだ。最初から自分ひとりで育てるつもりだったようでな。どうやら陣痛が起きてからお産が始まるまで、随分早かったらしくて結局救急車も呼ばずにひとりで出産したんだ。もしかしたら相手の男も子どものことは知らなかったのかもしれない」

ひとりの部屋でひっそりと子どもを産み、そして同じその部屋で寂しく死んでいった女。私生児として生まれ、一年と生きずに刺し殺された乳児。詠太郎は頭を振りはっきりさせようとした。

「長内先生に話を聞かんとあかんな」


               後編へ続く

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