第2話 感情の層
「感情の層──というものがある」
鍋をつつきながら、澄子は当然のように言った。
「感情の層?」
「感情というのはな、人が抱えるには大きくなり過ぎることがある。放っておくと心を壊すほどにな。すると心は自分を守るため、抱えきれない感情を外に逃す」
その説明は妙に腑に落ちた。
悲しみも恨みも、行き場を失えば重くなる。
人がストレスを発散するように、心も知らず知らず自衛しているのだろう。
「そうして切り捨てられた強い感情はその地に沈み、蓄積される。人々に捨てられ連綿と積み重なった強い感情の集合体、それが感情の層だ」
「捨てられた、強い感情……」
「その層だが……そうだな、お前が喩えたように病院では悲しい、テーマパークでは楽しいといった風に、場所によって溜まりやすい感情が異なる。大きくなった性質の違う感情層どうしがぶつかると、生じるのは”押し合い”だ」
「地震の仕組みのようなものか」
「まあそうだな、似ているかもしれん。そうして壊れた所から、溜め込まれた感情が溢れる。お前が当てられたのはそれだ」
「なるほど……一つ気になったんだが、現象そのものは世界の仕組みのようなものなのか?」
「そうだな、溢れた感情が必ずしも人に害を為すとは限らない。結果として人間に被害が出ることもあるが、その本質に善悪は無い。感情の種類によって影響は変わるし、何より個人差がある。そういう意味ではお前は人より影響を受けやすい体質のようだな。……お前、感情が乏しいだろ」
ドキリと心臓が跳ねた。子どもの頃に秘密基地の場所を言い当てられたような、そんな感覚。
「な、んでそう思った」
上手く呂律が回っているかはわからなかった。
すると澄子はくすりと笑い、続けた。
「やはりな。影響を受けやすい人間は二種類。層から溢れた感情と同質の感情を抱いていた者。もう一つはそもそも感情の起伏が乏しい者だ。普段起伏が乏しいやつはな、いきなり強烈な感情に当てられるともろに影響を受けてしまうんだ。心がな、感情を処理することに慣れていない」
なにが面白いのか澄子は二、三度肩を小刻みに揺らしくすくすと笑っている。
「どうしてそんなに面白そうなんだ」
澄子はいよいよ堪えきれないというように一度大きく体勢を整え、そんな表情も出来たのかと驚くくらい口もとに怪し気な薄笑みを浮かべ、上目がちに言った。
「いやなに、そんなお前が、私に対しては興味関心も、感情も、随分抱いているようだからな。助平め」
今度は脳がピシリと音を立てて固まった。
確かに僕は初めから澄子に見惚れそうになったし、もっと彼女を知りたいと思った。
しかし知りたいのは、感情についてでもあって。
「僕は、別に、そんなことは……」
そう答えるのが精一杯だった。
「冗談だよ、だが図星なのか?阿呆め」
揶揄われた、と気付いた途端固まっていた脳へ急激に血が送られ、頭痛にも似た熱を帯びて心臓の辺りに落ちていった。
きっと僕は今、かなり間抜けな顔をしている。
「まぁ私は人間の基準にあてるとかなり見目麗しい部類だろうからな、無理もない。なんならその恥ずかしいという感情も喰ってやろうか?」
「そ、そうだ、その感情を喰うというやつ、それはどういう原理なんだ?」
なんとか話題を逸らそうと咄嗟に聞いたが、これもずっと気になっていた。
だが彼女は表情をすんと戻し、ただ一言呟いた。
「わからん」
「わからない……のか?」
澄子はこちらを見ずに、感情を読ませない声色で言った。
「感情の層について知っている、私が感情を喰えることも。だが、”何故私が感情を喰うのか”、”それを続けてどうなるのか”はわからん。生まれ落ちた時にはもうこの姿で、ただ感情を喰わなければという使命感だけがあった。……疑問は無かったよ。おそらく“そういうもの”として生まれたんだろう」
話しながら澄子はお椀の中を箸でつついている。
言葉こそ気丈だが、その仕草は人生を受け入れ諦めた大人のようにも、宿題がわからなくて拗ねている子どものようにも見えた。
口が悪く、揶揄うのが好きで、優しく、とびきり見目麗しいこの少女が、酷く儚い存在に思えた。
「もし感情を喰べなければ、お前はどうなるんだ?」
「それも、わからんな」
痛みを堪えて無理に微笑むとしたらこんな顔になるのだろう。
己の浅慮さを悔いたが、澄子は僕に謝ってほしい訳ではないのだろうと思った。
でなければきっと、こんな笑顔で返事はしない。
ならば僕は。
「話題……を変えよう。なにか、したいことはあるのか?」
せめて寄り添おうと思った。僕に出来ることがあるなら、手伝おうと本心から思えた。
「そうだな……百と余年生きて、時代の移ろいを見た。人の作る物は面白い。いろいろなものを見たいし、知りたい……」
そう言うと澄子は膝を抱え顔を伏せてしまった。
思わず肩に触れようと手を伸ばしたが、今必要なのは上っ面の同情ではなく言葉だと思った。
「なら、僕に手伝えることがあれば言ってくれ。澄子の……助けになりたい」
伏せた顔をゆるりと上げ、少し見開いた瞳の奥、綺麗な翡翠色が少し揺れた気がした。
そして、ふにゃりと頬を緩ませ今までよりも少し柔らかい声で澄子は言った。
「ふふ、やっぱり私を手篭めにする気か?この助平」
こんなにもふわりとした柔らかい軽口があるのか。
澄子の表情になぜだか胸の奥からじんわり熱が広がるのを感じた。
調子を取り戻したらしい澄子はコップに半分ほど入った水を一気に飲み干し、鍋のおかわりをよそいながら、空気を入れ替えるように言った。
「実はな、私もお前となら何かわかるんじゃないか、と思っていたんだ」
「なにが?」
「初めてなんだよ、人間と話すのは」
これには流石に驚いた。百と余年生きたこの少女は、人と関わったことが無いという。
だが、会話もできるし、触れることもできる。
それに、比較的派手な風貌の人間が多い現代において尚、澄子はかなり目立つ。
正直、あまり信じられなかった。
「言わんとすることはわかるよ、だが本当だ。私は今まで誰とも話したことが無い。というより、話せないんだ」
「話せない?」
「私の声が聞こえていない。姿も見えていない。触れるなんてもっての外だった。実はな、お前に話しかけたのも『こいつならあるいは』と思ったからなんだ。だが触れる事までできたのには驚いた」
「どうして、僕だけ?」
「さあな。お前の周りには霧が少ないとでも言おうか──なんにせよ、お前が初めてなんだ、私に返事をくれたのは」
「よくわからないが……そうか、悪くないな」
「悪くない?おい、こんなにも可憐な少女が初めてだ特別だと言っているんだぞ、嬉しがったらどうだ」
「それはちょっと違うだろ……それより、実際僕に手伝えそうなことはあるのか?」
そう、勢いと本心で言ったものの具体的に何を手伝えるのかは全くわからなかった。
「正直言うとな、話し相手になってくれるだけでも構わない。だが、欲を言えばもっといろいろ食べたいと思っている。私はな、今まで物に触れることもできなかったんだ。だが何故だろうな、お前と居る時は物に触れることができる。料理を、食べることができる」
「そうか、わかった。話し相手が欲しくなったらいつでも来ればいい。あまり大層なものは無理だけど、食べる物も用意しておく」
「なんだ、一緒に住めとは言わないのか?」
「だからそういう冗談はいいって、心臓に悪い……狭いんだよこの部屋」
「ふふ。改めて、これからよろしくな、相原透」
「よろしく、澄子」
そうして僕には口が悪く、揶揄うのが好きで、優しく、とびきり見目麗しい人ならざる友人が出来たのだった。
澄子と友人になった翌日、僕は学校からの帰り道でとある決断に迫られていた。
「ハンバーガーとドーナツ、どっちがいいかな……」
こういう展開はアニメや漫画のお約束だ。
不思議な存在の少女と出会い、その少女が現代のファストフードをいたく気に入るというやつ。
澄子は誰からも料理を振る舞ってもらったことが無かった。
触れることも、声が届くことも無かったこれまでの百余年を思うと胸が痛くなる。
だからせめて美味しいものを食べてもらいたい。
それなりに悩んだが、今日も澄子が来るという保証は無いことに気付く。
なので食べるタイミングに融通の効くドーナツ店へ行くことにした。
今日来なければ小腹が空いた時にでも食べればいい。
もし来たらハンバーガーも提案して、そちらがいいと言えばデリバリーする手もある。
今日は来るのだろうかと、不安半分楽しみ半分でショーウィンドウを覗き込んだ。
二十時半を過ぎた頃、玄関のドアノブが回りガンと大きな音をたてた。澄子が来たのだろう。
「澄子?」
鍵のかかったドア向こうに居るであろう人物に呼びかけた。
「おい、鍵がかかっている」
「そりゃそうだよ、泥棒に入られると困るからね。ちょっと待って」
そんなに食事が楽しみなのだろうか。
鍵を開けると同時に勢いよくドアが開かれた。
「お転婆だね」
「?……ちょっと来い、お前に見せたいものがある」
てっきり家に入ると思っていた僕は予定外の外出に戸惑ったが、澄子の有無を言わせない雰囲気に呑まれ急いで準備をするのだった。
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やがて澄子が沈むなら 犬甘あつ @Inukai_Atsu
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