やがて澄子が沈むなら

犬甘あつ

第1話 欄干の向こう側

「おい、なにをしてる。戻れ」


 銀で作った細い糸がため息で揺れたような、細く澄んだ綺麗な声で、ふと我に帰った。

銀糸の声の方を見遣ると、陶器のように白い肌の少女が立っている。

表情は薄く、感情が抜け落ちたガラス玉のような瞳でこちらをじっと見ていた。


「聞こえるんだな。……いつまで呆けてる、戻れ」


 僕は欄干の向こう側に立っていた。

市を跨ぐ大河川に架かる長い橋、その境界の外側に。

自分の意思ではなく、いつの間にか。


 脳を鉛の膜で覆われたみたいな圧迫感が嫌に重い。


 十二月に入った途端思い出したかのように冷たくなった風は容赦無く体の感覚を鈍らせていたようで、両手の感覚は冷たさよりも痛みが強かった。


 冷たい境界線をしっかりと握りしめ、橋の内側に戻る。

落ちる心配が無くなったと思った途端、膝から力が抜けてへたりこんでしまった。


「お前みたいな奴が夜中にこんな所へ来るな。阿呆か?」


 ともすれば作り物と見紛うほど整った姿形の少女は、ウェーブがかったブルーグレーのミディアムヘアを夜風に揺らしながらそう言った。


 助けてもらっておいてなんだが、少々口が悪くないか?


「ありがとう……?あの、僕は別に飛び降りようとかそんなつもりは……」


「お前、名前は」


「相原……透」


「そうか、相原透。お前な、随分当てられてるぞ」


「……どういう」


「この辺りには強い喪失の感情が出ている。お前はそれに当てられて、希死念慮という形で現れたんだろう」


「喪失の感情……身に覚えは無いけど」


「お前自身の感情じゃない。この辺り一帯の……まぁ、特有の雰囲気みたいなものだ。お前が悪い訳じゃないが、影響されやすい体質なんだろ」


「病院で無性に悲しくなる、みたいな話か?」


「……なかなかわかる奴だなお前。じっとしてろ、楽にしてやる」


 少女は片膝をつき、僕の額に触れた。


 鉛の圧迫感がすっと消え、ようやく焦点が合ったような気がした。

無表情な少女の肌はやはり白く、ガラス玉のように見えた瞳の奥には薄い翡翠色があった。


「君は……何をした?」


「お前に入り込んでいた喪失を喰った。礼はいい、私の役割でもある」


「喪失を喰ったって……いったいなんなんだ、君は人なのか?」


「いいや、人じゃない」


 少女は人差し指を出し、折った。


 パキリと嫌な音がする。


 だが少女は痛がる素振りも無く立ち上がると、折れた人差し指をさすり未だ座り込んだままの僕に手を差し伸べた。


 スラリと伸びた細い指と小さな手に見惚れそうになったが、また阿呆だの言われるとたまらないので、思い切って手を借り立ち上がる。


 折れたはずの指はもうすっかり治っていた。


「言っておくが、痛くない訳じゃない」


「……悪い。それと、ありがとう」


「構わない。とにかく、お前は影響を受けやすいようだから気をつけろ。早めに帰れ」


 そう言ってこちらを振り返ることなく去っていく少女を引き留める言葉が浮かぶことは無く、不思議な出来事と、澄んだ声の少女のひんやりとした感触を反芻しながら帰路についた。



 翌朝、僕は大学に向かう電車の中で今、睡魔とともに揺られていた。

家に帰ったところですぐに思考が切り替わるなんてことは無く、一人暮らしの寂しさも相まって朝までずっと昨夜の出来事を思い返していた。


 そもそも僕はどうして欄干を超えていたのだろう。

昨日は確か、夜になってから散歩に出たはずだ。

夜に出歩くのはいつものことだ。

何か目的があってのことではない。

家に居たってすることがないし、言うなればただの気分転換だ。

ただ昨日は少しルートを変え、隣の市まで歩くつもりで橋を渡った。

橋を渡ってすぐの河川敷の公園で休憩し、少し眠気が来てベンチに座った……次の記憶は、欄干の向こう側だ。


 彼女の言を信じるのであれば、あの辺りには良くない気のようなものが立ち込めているのだろう。

そしてそういったものに影響されやすいらしい僕が間抜けにもそこでうたた寝なんかをしてしまったから、長時間良くない気に晒されて当てられた、ということか。


「馬鹿げてる……けど、夢ではないんだよな」


 まだ冷たさを覚えている手のひらに触れ、目を閉じる。

美しい少女への賛辞として人形のようという喩えがあるが、昨夜の少女を形容するのであればまさしく人形のようという言葉が適切であると思えた。


 少女は存外小柄だった。僕の頭ひとつぶんくらい低かったから、150センチ前後だろうか。

年齢を見た目から推し量ることはできなかった。そもそも人ではないと言っていたから年齢の概念が無いかもしれない。


 人ではない証拠として人差し指を折っていたが痛かったんだな、酷なことをさせてしまった。喪失の感情を喰ったと言っていたが普通の食事は摂るのだろうか。好物はあるのか?礼はいいと言っていたが感情を食べてもらう以前に命を助けてもらっているしその礼はしたい。また会えるだろうか。


 思考がまとまらないまま揺れと睡魔に身を委ね、終着駅で肩を叩かれ目が覚めた。


 一限からの講義に出席する予定だったのだが結局三限からになってしまった。

終点まで眠りこけてもなお眠気は留まることを知らず、講義のほぼ全てを睡眠に充てることとなった。



 自炊のため帰りにスーパーで買った野菜や肉を切り、小分けにしてタッパーに詰める。

一見家庭的でやりくり上手に見えそうなこの自炊は、節約が目的というよりも、家に居る間少しでもやることがあった方が落ち着くからという程度の理由で続けている。


 そんな動機だから料理に特別興味がある訳でもなく、炒めるか鍋にするかくらいのレパートリーしかない。いつも通りに食材を分け、片付けを済ませるとやはり何をしようか考えてしまう。


 実のところ、僕にはこれといった趣味が無い。何事にも興味が無いという訳ではないのだが、何をしても夢中になれた試しが無かった。


 友達と遊べば皆と同じように上手く笑えるし、映画を見ても小説を読んでも、面白いと思うしちゃんと感動も出来る。

ただ、それが自分の心から発せられたものだと思うことだけが、どうしても出来なかった。


“そういうふうに感じるよう仕向けられている”


 そんな考えがいつもあって、だから何をしても心から楽しむということが出来ないのだと思う。

本当は楽しいなんて、面白いなんて、僕の心は思っていないのではないかと。

なので自分は何か欠落しているのではないかと思ったこともある。


 虚しさと手持ち無沙汰を誤魔化すため、結局夜の散歩に出かけるのだった。



 僕は昨日と同じく橋の上に居た、といっても欄干の内側だが。


 彼女はこの辺りに強い喪失の感情が出ていると言っていた。


そしてそれに当てられた僕から感情を喰い、それはどうやら彼女の役割でもあるらしい。

つまり、感情に当てられた人を探して歩いているのかもしれないと予想した。

そして、予想が正しかったのかはわからないが、とにもかくにも目的は達成された。


「また当てられたか。お前は本当の阿呆なのか?」


「今日は僕の意思だよ、お礼を言いたかったんだ。ここに来ればまた会えるかもしれないと思ってね」


 少女は初めて無表情以外の表情を見せた。少し嫌そうな顔だが、昨日の作り物っぽい雰囲気よりは随分と生き物っぽい。


「気持ち悪いことを言うな相原透。感情を喰ったことなら気にするなと言っただろ、あれは私の役割でもあるんだ」


「でもそれ以前に身投げしそうな僕を呼び止めてくれたじゃないか。一応命の恩人なんだ、改めてのお礼くらいさせてくれたっていいだろ。それに、用事はお礼だけじゃないんだ」


「喪失の感情について聞きたいのか」


「その通り。よくわからないことの当事者になったからっていうのもあるけれど、昨日の説明じゃ余計気になってね。話を聞いてもいいかな」


「構わん、別に話して私が困ることはない。」


「良かった。じゃあ、立ち話もなんだし僕の家で話さないか?流石に冬の夜は寒くて」


「お前……会って二回目の女をいきなり家に連れ込むのか?節操が無いな」


「人じゃないんだろ?それに、そういう冗談を言ってくれるとは思わなかったな。ちょっと意外だ」


「なんだ、見境がないのか。」


「だから、そういう意図はないよ」


「まぁ……いいだろう、案内しろ」


 言いながら彼女は小さな顎をクイと上げ、早くしろと言わんばかりに目を細めた。

一見するとあまり表情は変わっていないように見えるが表現は豊かな部類なのかもしれない。


「感情の話は家で聞くとして、歩きながら他のこと聞いてもいいかな」


「他のこと?」


「君のこと」


 今度は普通に嫌そうな顔をされた。

お前みたいなのはいつか刺されるだとか、これだから若い男はだとか言って結局あまり話はできなかったが、昨日と比べ少女からは少し気軽さを感じられた。



「少し狭いけど、どうぞ」


「気にしない。さっさと本題に入るぞ」


「え、せっかくなら何か振る舞おうと思ったんだけど。そういえば君は食事はするのか?」


「わからん」


「わからんってなんだ?じゃあ、適当に作るよ。ちょっと待ってて」


「話を聞きたいのか飯を食わせたいのかどっちなんだ……」


「どっちもだよ。ご飯食べながら話をしよう」


 今日切ったばかりの食材を鍋に入れ、煮込む。おそらく食事の経験が無いのだろうと、奮発して豚肉を多めに入れてやった。

宗教によっては肉が禁止されていると聞くが、その類の神様だったらという問題だけは少し気になった。


 彼女は大人しく座っているものの、視線だけはあちこち動いて部屋を見ている。

出来上がった鍋をテーブルに持っていくと、体ごとこちらを向いて覗こうとしてきたので思わず笑ってしまった。


「召し上がれ」


「これは触れるのか……いただきます──美味いな。人と同じ味覚があるのかはわからないが、美味い」


「それはよかった、安心したよ。人に料理を出すのは初めてだったからね。鍋なら失敗することはないけれど不味いとか、味がしないとか言われたらどうしようかとは思ったんだ」


「料理を食べたことはないが、料理が手間のかかるものだというのは知っている。自分のために作ってくれた料理に不味いとは言わんさ」


「それもそうか。むしろ、そんなことを言われるかもと思った僕の方が失礼だったかな。ごめん」


「構わない。初めて手料理を振る舞うのだから不安にもなるだろう」


「君は……ところで君のことはなんて呼べばいい?名前も聞いてないんだけど」


「名はない」


「そうか、そういう感じか……困ったな、どう呼ばれたいとかは?」


「それも無いな、今まで必要が無かった」


「じゃあ、そうだな……澄んだ声の…人形のような?…… 澄んだ瞳の──あ、澄子」


「!……なんだ?今……おい、相原透、もう一度呼べ」


「え、澄子……?」


「……そうか、そうか……いいだろう、少々安直だが気に入った」


「そう?なら良かった……どうかした?」


 少女改め澄子は明らかに驚いた顔をしていた。不思議なものでも見るように自分の手を見つめている。


「いや……なんでもない、気にしなくていい。澄子な、気に入ったよ。ありがとう」


「思ったより喜んでくれて僕も嬉しいよ。よろしく、澄子」


「ああ、よろしく、相原透」


 それじゃあ、と澄子はお椀を置き、少し姿勢を正して僕を見た。


「そろそろ、本題に入ろうか」

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