第3話『ノイズと声明』
石造りの街は、想像以上に生きていた。
石畳は昼の熱をほんのり抱えたまま、足裏へやさしく返ってくる。
風は乾いていて、パンを焼く匂いと、鍛冶場の金属の匂いが混ざって流れていた。
遠くで鳴る鐘の音は丸く、聞いているだけで胸が落ち着く。
ゲームなのに、落ち着くのが悔しい。
俺は息を吸って、もう一度ゆっくり吐いた。
視界の端で、布がはためく。
露店の旗だ。
果物の艶、木箱の傷、売り子の手のしわまで妙に細かい。
あちこちでプレイヤーが歩き、走り、立ち止まっては空を見上げる。
みんな、同じ気持ちなんだろう。
新しい世界に降り立ったばかりの、あの浮き立つ感じ。
「……シロナ」
自分で決めた名前を、小さく口の中で転がす。
白峯永絆の、最初と最後。
白峯の白。
永絆の絆。
昔から、ゲームの主人公はこの名前でやってきた。
俺がどんな気分でも、どんな夜でも、画面の向こうで一番最初に呼ばれる名前。
その名前でなら、少しだけ強くなれる気がした。
メニューを開く。
ステータス欄に、俺の身体の数字が並ぶ。
見慣れた現実の重さも、ここでは全部、ゲームの要素に変わる。
それが嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。
ただ一つ分かるのは、俺は変わりたいって事だ。
腹の感触を思い出して、苦笑いが漏れる。
永遠の指。
ぷにぷに。
あの笑い声。
悔しいのに、嫌じゃない。
俺は露店を覗き込み、干し肉を手に取るふりをした。
触れた瞬間、指先にざらりとした感触が返ってくる。
塩の匂いが鼻に刺して、思わず顔をしかめた。
すごい。
嫌になるほど、本物だ。
この世界で走れば、現実の筋肉が動く。
剣を振れば、現実の腕が疲れる。
だったら。
だったら、俺はここで痩せられる。
痩せて、永遠に二度と腹をつつかれないように出来る。
それだけで、ちょっとだけ勝った気分だ。
俺は歩き出す。
石畳の上を、わざと速足で。
息が上がる。
胸が苦しい。
でも、嫌じゃない。
心臓が働いている感覚が、ちゃんとある。
広場に出ると、噴水が見えた。
水が跳ね、光が砕け、細かいしぶきが頬に当たる。
冷たくて、気持ちいい。
俺は思わず笑いそうになって、口を押さえた。
その瞬間だった。
耳の奥で、ちり、と音がした。
砂を噛んだみたいな、気持ち悪い音。
視界が一瞬だけ揺れて、街の色が薄くなる。
噴水の音が、遠くへ引っ張られた。
俺は足を止めた。
背中がぞわりとする。
この世界の空気が、さっきまでと違う。
匂いが、薄い。
風が、冷たい。
いや、冷たいんじゃない。
温度の情報が、抜け落ちたみたいに感じる。
周りを見れば、同じように立ち止まっているプレイヤーがいた。
誰かが口を開けたまま、空を指さしている。
別の誰かは、耳を押さえて顔を歪めていた。
「今の、なに?」
誰かの声。
震えている。
俺はもう一度、メニューを開こうとする。
指が空を滑り、反応が遅れる。
普段なら当たり前に出るはずの表示が、ワンテンポ遅い。
それが、妙に怖い。
ちり。
また音がする。
今度は、もっと近い。
頭の中を針で引っかかれるような違和感。
俺は口の中で小さく呟く。
「……なんだこれ」
誰に言ったのかも分からない。
ただ、胸の奥の嫌な予感だけが、急に大きくなっていく。
◆
居間の空気は、夕飯前の匂いで満ちていた。
出汁の匂い。
湯気。
じいちゃんの淹れたお茶の香り。
テレビの音。
永遠はテーブルに頬杖をつき、宿題のノートを開いていた。
鉛筆の先が紙をこすり、時々止まる。
止まった時は、大体、テレビを見ている。
「ねえ、これさあ」
永遠が鉛筆で問題文を指す。
「この漢字、むずかしくない?」
ばあちゃんがにこにこしながら覗き込む。
「むずかしいねえ。ゆっくりでいいよ」
永遠はむっとした顔で、鉛筆を動かす。
その顔が妙に真剣で、じいちゃんが穏やかに笑った。
「永遠は、最後までやる子だの」
「当たり前だし」
永遠は照れ隠しみたいに言って、すぐにまたノートに向き直る。
その時。
テレビが、ぶつっと音を立てた。
画面が一瞬真っ黒になり、次の瞬間、ざらざらしたノイズが走る。
音が割れ、映像が歪む。
ニュース番組の司会者の顔が、引き伸ばされたみたいに崩れた。
「え?」
永遠が顔を上げる。
ばあちゃんの手が止まる。
じいちゃんは、湯飲みを置いた。
ノイズの向こうから、機械みたいな声が流れた。
男か女かも分からない。
作られた声。
それが、妙に落ち着いている。
「これは電波ジャックである」
永遠の背中が、ぴんと固くなる。
「日本だけではない」
声が続く。
「世界中に向けた声明だ」
画面には、黒い背景と白い文字だけが映る。
角ばった文字が、冷たく並んでいた。
「現在、VRエクストラクトを使用したVRゲームにログインしている者達を、人質とする」
永遠が小さく息を吸う。
鉛筆が、ころんと転がった。
「お兄ちゃん」
永遠の声は、さっきまでの可愛い調子じゃない。
不安が混ざって、細くなっている。
ばあちゃんは、永遠の頭に手を置いた。
優しく撫でる。
その手はあたたかい。
「大丈夫。永絆は、ちゃんと考えて動く子だよ」
言い切る。
にこにこしたまま。
でも、その言葉には迷いがない。
この家で一番強いのは、確かにばあちゃんだ。
テレビの声が続く。
「機器を強制的に外す事は、死を意味する」
「外した瞬間、痛みは増幅され、肉体は耐えられない」
「試すな」
最後の短い言葉が、ぞっとするほど重かった。
永遠の目が大きく揺れる。
涙が浮きそうになって、それを必死でこらえる。
「目的は多額の金と、自治権だ」
「国が認めれば、人質は解放される」
じいちゃんが、永遠を見た。
穏やかな目だ。
声も、穏やかだった。
「永遠」
「なに」
「怖い時は、怖いって言っていいんだぞ」
永遠は唇を噛む。
それでも、首を横に振った。
「怖くない」
嘘だ。
でも、嘘でもいい。
今は崩れたくない。
そんな意地が、永遠の声に混ざっていた。
テレビの画面が切り替わり、各国の緊急会見の映像が流れ始める。
専門用語が飛び交う。
厳しい顔。
繰り返される言葉。
テロには屈しない。
要求は認めない。
人命を最優先する。
優しい言葉が並ぶのに、永遠の胸は軽くならない。
永絆が、今どこにいるのか。
何を見ているのか。
それが分からないからだ。
ばあちゃんが、台所の火を止める。
鍋の音が静かになる。
家の音が、一つずつ消えていく。
「永遠」
ばあちゃんが言う。
柔らかいのに、逆らえない声。
「宿題は、ここまででいいよ」
「でも」
「今は、いい」
永遠はノートを閉じた。
閉じる音が、やけに大きい。
◆
石造りの街は、まだそこにあった。
でも、空気が薄い。
さっきまであった匂いが、遠い。
風の感触が、皮膚の上で滑っているだけみたいに軽い。
広場の真ん中に、人が集まり始めていた。
誰かが叫んでいる。
何を言っているのか、うまく聞き取れない。
音が、割れている。
ちり。
またノイズ。
今度は視界の端が点滅したと思ったら、空に歪んだ光の膜が張り付いた。
最初は雲かと思った。
次の瞬間、それが画面だと分かる。
街の上空いっぱいに、巨大な映像が展開される。
ざらついたノイズ。
白と黒だけの配色。
そして、あの声。
「これは、先ほどから各国の放送に割り込んでいる声明と同一のものだ」
機械的な声が、ゲーム世界にもそのまま流れ込んでくる。
スピーカーなんてない。
なのに、頭の内側で鳴っている。
広場が、静まり返った。
誰もが空を見上げている。
NPCも、プレイヤーも、区別がなくなったみたいに。
「現在、VRエクストラクトを使用し、接続中の全プレイヤーは人質である」
ざわ、と空気が揺れる。
誰かが笑った。
乾いた、信じられない時の笑いだ。
「……冗談だろ」
「運営のイベントじゃねえの?」
そんな声が、いくつも重なった。
俺も、一瞬だけそう思おうとした。
でも、無理だった。
映像の端に、見覚えのあるものが映った。
各国の会見場。
見た事のある国旗。
硬い表情の人間達。
テレビで見ていた、あの続きだ。
つまりこれは――同時だ。
「各国政府との交渉は行われた」
「要求は、多額の金銭と、我々の自治権」
声は淡々としている。
感情がない。
だからこそ、怖い。
「だが、拒否された」
空気が、さらに冷える。
誰かが息を呑む音が、はっきり聞こえた。
「よって、次の段階に移行する」
俺の背中を、嫌な汗が伝った。
心臓が、強く打つ。
「投入するのは、専用に作成されたウィルスだ」
「高度なAIによって設計された」
「修正も、遮断も不可能である」
画面が、一瞬だけ乱れた。
ノイズが爆発する。
その瞬間。
視界の端に、赤い文字が走った。
システムメッセージ。
普段の、無機質な案内とは違う。
震えるような表示。
読もうとした、その時。
「これより、このゲームは仕様変更される」
機械音声が、はっきり告げる。
「ゲーム内での死亡は、現実の死亡と直結する」
広場が、凍りついた。
誰かが叫ぶ。
誰かが崩れ落ちる。
NPCの悲鳴が、初めて作り物じゃない音に聞こえた。
「外に出ろ!」
「ログアウトだ!」
怒鳴り声。
焦った操作音。
でも――
俺は、もう一度メニューを開いた。
そこにあるはずの項目が、消えている。
ログアウト。
灰色に塗り潰され、選択できない。
喉が、ひくりと鳴った。
「……ああ」
理解してしまった。
理解したくなかったのに。
これは、始まったんだ。
ゲームじゃない。
イベントでもない。
取り消しも、やり直しもない。
帰れない世界が、今、完成した。
空の画面が、ゆっくりと消えていく。
最後に残ったのは、短い一文だけだった。
「生き残りたければ、攻略せよ」
街の音が、戻ってくる。
でも、もう同じ音じゃない。
風が冷たい。
匂いが、薄い。
心臓の音だけが、やけに大きい。
俺は、拳を握った。
白峯永絆としてじゃない。
シロナとして。
ここで死ねば、終わりだ。
でも――
生きて帰る理由なら、俺にはある。
妹の顔が、頭に浮かぶ。
じいちゃんの声。
ばあちゃんの背中。
「……帰るぞ」
誰に向けた言葉でもない。
誓いに近い、独り言。
こうして。
誰も望まなかったデスゲームの日々が、始まった。
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