第2話『始まり』
デスゲームから解放される、およそ3年前から物語は始まる。
箱は、思っていたよりも大きかった。
玄関に置かれた段ボールを見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
大きさだけじゃない。
貼られた注意シールの数が、普通の家電とは違う気がした。
宅配の人が軽く息を整えている。
その額にうっすら汗が浮いているのを見て、これは本当に大掛かりな物なんだと、今さら実感した。
俺の手元に来るまでの重さが、いま目の前にある。
伝票を受け取り、箱に手を掛ける。
ずしりと重い。
思わず腰を落とし、指を食い込ませて力を入れ直した。
段ボールの表面が少しざらついて、掌に引っかかる。
その感触だけで、心臓が落ち着かない。
これは、ただのゲーム機じゃない。
身体を、動かす。
そういう代物だ。
「……でかいな」
思わず声が漏れる。
口から出た言葉が、自分でも少し震えて聞こえた。
「はは、確かに大きいなぁ。
居間の方から、柔らかい声が返ってきた。
じいちゃんだった。
テレビはつけたまま、こちらを見ている。
視線は穏やかで、追い詰めるような感じが一切ない。
ただ、面白そうな物を見つけた時の目だ。
「これね、ゲーム機だよ。身体動かすやつ」
「ほう。今のは随分立派なんだな」
値段も、細かい事も聞かない。
気を使っているわけでも、興味がないわけでもない。
じいちゃんは昔から、俺の選択に口を挟まない。
その代わり、話したくなったらいつでも聞く。
そういう人だ。
俺が持ち上げようとしたのを見て、じいちゃんがすっと立ち上がる。
足音が静かで、どこまでも落ち着いている。
玄関の段差で箱が揺れた瞬間、じいちゃんの手が自然に添えられた。
支える力は強いのに、主導権を奪わない。
それが、じいちゃんのやり方だ。
じいちゃんも手伝ってくれて、自室まで運ぶ。
廊下を曲がるたび、段ボールの角が腕に当たる。
その度に、皮膚が少し赤くなっていくのが分かる。
でも痛みより、胸の奥の熱の方が勝っていた。
自室の床に箱を下ろすと、腕にじんとした感覚が残った。
指先がしびれて、手が少しだけ震える。
重かったからじゃない。
ここまで来た、という気持ちのせいだ。
この機械を買うために、俺は一年以上バイトした。
帰り道のコンビニに寄る回数も減らした。
新作ゲームの発売日も、指をくわえて眺めるだけだった。
友達に誘われても「また今度」と断った夜もある。
スマホで値段を確認して、ため息をついて、また明日のシフトを入れて。
そうやって積み上げた時間が、箱の重さになってここにある。
その全部が、今、この箱の中にある。
「永絆」
台所から、ばあちゃんが顔を出した。
鍋をかき混ぜる手を止め、にこにこしながらこちらを見る。
その笑顔があるだけで、この家が揺らがない事を思い出す。
「ちゃんと考えて買ったんだろうねぇ」
「考えたよ」
「だったら、いいねぇ」
それだけ言って、また台所に戻る。
出汁の匂いが、家の中に広がった。
鼻の奥がふわっと温かくなる。
この匂いは、帰ってきた時に一番安心するやつだ。
箱を開けると、新品特有の匂いがした。
少し冷たくて、でも嫌じゃない匂い。
機械の匂いなのに、未来っぽいというより現実っぽい。
プラスチックと金属が混ざったような匂いが、鼻の奥に残る。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
VRエクストラクト。
身体の動きに合わせて、筋肉に刺激を返す装置。
ゲームの中で動けば、現実の身体も動く。
走れば走った分だけ、振れば振った分だけ。
筋肉に電気のような刺激を返して、動きを現実に引っ張ってくる。
俺は説明書の文字を追いながら、ふと自分の腹に視線を落とした。
Tシャツの上からでも、少し分かる。
座ると、ちゃんと乗る。
笑うと、少し揺れる。
見なかった事にしてきた部分が、今日はやけに目に入る。
「……」
言葉が出ないまま立ち尽くした、その時だった。
「お兄ちゃん」
背後から、ひょいっと妹の
この家で一番、風みたいに動くのが永遠だ。
気づくと横にいる。
気づくと後ろにいる。
「なに」
返事をするより早く、永遠の手が腹に伸びる。
「ぷに」
「おい」
「ぷにぷに」
「やめろって」
「えー? だって柔らかいんだもん」
逃げようとするが、永遠はしつこい。
指で、遠慮なく腹をつついてくる。
つつくたびに、俺の腹がちゃんと反応して揺れるのが腹立つ。
「最近さー、ちょっと丸くなったよね?」
「うるさい」
「前はもう少し固かったのに」
「成長期だ」
「それ、言い訳じゃない?」
永遠は笑いながら、今度は両手で軽く挟むように触ってくる。
ぷに、と音が出そうな柔らかさが、最悪に恥ずかしい。
「お兄ちゃん、これで剣振れるの?」
「振れるわ!」
「走れるの?」
「走れる!」
「じゃあ、痩せるの?」
「……痩せる」
最後だけ、声が小さくなった。
永遠はそれを聞いて、勝ち誇った顔でにこっと笑う。
「よし。じゃあ永遠、応援するね」
「応援じゃなくて、いじるな」
「いじってないよ。愛だよ」
「その愛は要らない」
くすくす笑いながら、ようやく手を離した。
その瞬間、腹が軽くなった気がして、逆に虚しい。
事実だ。
運動は苦手で、ゲームばかりしていた。
気付けば体重計に乗るのも億劫になっていた。
友達と並んで歩く時、息が少し上がるのも気づかないふりをしていた。
だから、これは都合が良すぎる話だった。
ゲームをしながら、痩せられる。
逃げ道みたいな希望だった。
俺は、逃げ道に全力で走りたい。
「儂も昔はな」
じいちゃんが、箱を覗き込みながら言った。
覗き方が、子どもみたいに楽しそうだ。
「よくゲームをやってたぞ」
「え?」
「仕事から帰って、夢中になってなぁ」
じいちゃんは少し懐かしそうに笑う。
その笑い方が、驚くほど柔らかい。
「今の永絆の気持ち、凄く分かるぞ。わくわくしてるだろ?」
「……してる」
「はは、それでいい」
その声には、否定も心配もなかった。
分かっている人の声だった。
夢中になる事を、悪い事みたいにしない人の声。
「永絆はじいちゃん似だなぁ」
台所から、ばあちゃんの声が飛んでくる。
「おじいちゃんも、よく深夜までゲームやって、そのまま出勤してたわぁ」
「はは、それは言わんでいいだろう」
じいちゃんは困ったように笑って、肩をすくめた。
ばあちゃんはいつもニコニコしている。
でも、この家の空気を一番強く決めているのは、ばあちゃんだ。
じいちゃんの笑いを見て満足そうにしているのが、それを証明している。
俺は説明書を閉じ、コントローラー類を並べていく。
配線を整えるだけで、気持ちが整っていく。
こういう作業は嫌いじゃない。
期待が形になっていく時間だからだ。
その時、ふと思い出す。
ゲームに入る前に決めるものがある。
プレイヤー名。
キーボード入力欄が表示される。
真っ白な枠を見ただけで、胸が少し高鳴った。
俺は昔から、どのゲームでも同じ名前を使ってきた。
それが自分の分身みたいになっている。
画面の中の俺は、いつもその名前で生きてきた。
白峯永絆。
しらみね なずな。
苗字の最初、名前の最後。
白、そして、な。
それを繋げて。
シロナ。
子どもの頃、初めて自分で決めた主人公の名前。
その名前で勝った。
その名前で負けた。
その名前で、何度もやり直した。
だから、今日もそれでいい。
いや、今日こそそれがいい。
指先で入力する。
SHIRONA。
カタカナに変換して、シロナ。
決定。
その瞬間、画面の中に小さな輪郭が生まれた気がした。
俺の分身が、息をする準備をしたみたいに。
「お兄ちゃん、それ今日やるの?」
永遠がもう一度聞いてくる。
さっきと同じ質問なのに、今度は少し真剣だ。
「やる」
「夜まで?」
「たぶん」
「長いね」
永遠は楽しそうに笑う。
その笑顔が、ちょっとだけ羨ましい。
心配が混じらない笑顔は、強い。
機械を装着する。
腕、脚、背中。
一つ一つ調整されるたび、くすぐったい感覚が走った。
皮膚の上を、細い波が撫でていくような刺激。
強くもないのに、確かに存在している。
ストラップを締めると、姿勢が少し正される。
背筋が伸びて、腹も少し引っ込む。
永遠が見ているのが分かって、無駄に胸を張った。
「疲れたら、休むんだぞ?」
じいちゃんの声は、相変わらず穏やかだった。
柔らかいのに、支えがある。
その一言で、勝手に肩の力が抜ける。
「……うん」
それ以上、何も言わなかった。
じいちゃんは見守る。
ばあちゃんは見守りながら、必要な時だけ決める。
永遠は笑う。
この家は、そうやって回っている。
準備が終わる。
深呼吸を一つ。
鼻から息を吸うと、出汁の匂いと新品の匂いが混ざっている。
変な組み合わせなのに、なぜか落ち着く。
俺が選んだのは、ファンタジークロスオーバー。
魔法のない世界。
武器やスキルだけのRPG。
そして現実の能力が、そのまま反映される。
なら、痩せるのも本物だ。
腹のぷにぷにが減るのも本物だ。
それを想像しただけで、少しだけ笑ってしまった。
そして最後にフルフェイスのヘルメットのようなVRゴーグルを被る。
◆
視界が暗くなる。
一瞬、何も見えなくなる。
耳だけが生きていて、家の音が遠くで鳴っている。
鍋の音。
テレビの音。
永遠の小さな足音。
次の瞬間、世界が開いた。
風がある。
肌に触れた瞬間、冷たさが指先まで走った。
家の風じゃない。
外の風でもない。
どこか乾いていて、石の匂いを運ぶ風だ。
匂いがある。
土と草と、人の気配が混じった匂い。
遠くで焼いたパンみたいな香りもする。
鼻の奥がくすぐられて、思わず息を吸い直した。
空気がある。
湿気の薄い、透明な空気。
深く吸うと、胸の奥まで一気に満ちる。
その感覚が気持ちよくて、少しだけ笑いそうになる。
足元に、確かな地面がある。
石畳が硬い。
踏むと、靴底を通して冷たさが伝わってくる。
小さな砂利が転がって、かすかな音を立てた。
石造りの街が、目の前に広がっていた。
壁の質感が粗い。
窓枠の木が乾いている。
看板の揺れ方が現実みたいに自然で、視線が吸い込まれる。
「……すげえ」
声が、この世界に返ってくる。
反響が少し遅れて戻ってくるのが、またリアルだ。
歩く。
靴が石を叩く音がする。
走る。
風が顔に強く当たって、頬が冷える。
腕を振る。
筋肉がちゃんと動く。
息が上がる。
胸が少し苦しい。
腹が揺れるのが分かって、悔しくなる。
でも、嫌じゃない。
嫌じゃないどころか、少し嬉しい。
これで痩せるなら、いくらでも息を上げてやる。
街は賑やかだった。
笑い声と足音が混じり合っている。
誰かが市場で値切っている声。
どこかで金属が触れ合う音。
水の流れる音。
世界が、ちゃんと生きている。
俺はログアウトのメニューを一度だけ確認した。
ちゃんとある。
帰れる。
よく分からない安心感を胸に、歩き出す。
指先が少し震えているのは、怖いからじゃない。
わくわくだ。
画面の中の俺が、いま本当に歩いている。
シロナ。
いつもの名前。
いつもの俺。
でも、今日はいつもより現実だ。
◆
居間では、じいちゃんがテレビを見ている。
ばあちゃんは夕飯の準備をしている。
永遠は宿題をしている。
その全部が、当たり前に存在している。
それが当たり前である限り、俺は大丈夫だと思えた。
腹のぷにぷにを減らすために。
そして、もう少し胸を張るために。
ここから始まる。
わくわくと、笑い声と、少しの覚悟と一緒に。
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