デスゲームから帰還した最強の死神勇者は家族の平穏の為だけに無双する――家族に触る奴は、全員敵だ

兎深みどり

序章:『デスゲームの始まりは突然に』

第1話『帰還』

 最下層の空気は、重いというより、噛みついてくる。

 息を吸うだけで、喉の奥が焼ける。

 足元の床は白い。

 石でも骨でもない、何かを固めたような質感だ。

 踏むたびに、乾いた音が返ってくる。

 この広さで、その音が俺の分しかない。

 当たり前だ。

 ここには俺しかいない。


 目の前の闇が蠢いた。

 闇は輪郭を持ち、輪郭は巨大な口になった。

 上も下も分からないほど大きい。

 歯は刃物の群れみたいに並び、唾液が霧になって落ちている。

 霧が床に触れるたび、白が黒ずんでいく。


 幻想喰い。

 この世界の終点。

 そして、俺の三年の終点。


 左腰の鞘に手を掛ける。

 抜けば、空気が変わる。

 『次元刀』

 刃こぼれしない。

 俺の筋力が、火力になる。

 俺だけの相棒。

 だからこそ、今は迷わない。


 刀身が鞘から抜けた。

 金属音が鳴るはずなのに、音が薄い。

 ここでは、音すら遠慮する。

 代わりに、刃の冷たさだけが掌に残る。


 右腰の鞘には赤い刀身の刀。

 こちらも抜き放つ。


 相手は格上。

 最強のラスボス。

『勇者』の称号の効果、格上の敵との戦闘時全ステータスが2倍になるが発動する。


「……必ず、帰る」


 呟いた声が、自分の耳にすら届きにくい。

 それでも言った。

 言わないと、折れそうだったから。


 幻想喰いが、口を開いた。

 空間が引っ張られる。

 風が逆流し、身体の中の熱まで持っていかれる。

 飲み込まれたら終わりだ。

 ゲームオーバーは現実の死。

 この理不尽の中、三年生きてきた。


 俺は一歩踏み込む。

 足裏が床を噛む。

 重力が強い。

 強いのに、身体は軽い。

 毎日積み上げた反復が、勝手に動かしてくれる。


 口の縁を狙って斬る。

 硬い。

 刃は通るのに、手首が弾かれる。

 切れ味の問題じゃない。

 相手が、でかすぎる。


 幻想喰いの唾液が飛ぶ。

 霧が腕に触れ、熱い痛みが走った。

 皮膚が削られていく感覚。

 俺は歯を食いしばり、もう一度踏み込んだ。


 視界が暗くなる。

 口が閉じる。

 飲み込む動きだ。

 逃げるなら今だ。

 でも逃げたら、次はない。

 俺は、逃げたくない。


 家の玄関の灯りが、一瞬だけ頭に浮かんだ。

 ばあちゃんの味噌汁の匂い。

 いつも優しいじいちゃん。

 妹の笑顔。

 全部、ここじゃない場所のものだ。

 だから、帰る。


 俺は身体を落とし、床を蹴った。

 口が閉じる寸前の隙間へ滑り込む。

 歯が頬を掠め、血が散った。

 痛みは鋭い。

 でも、その痛みが今はありがたい。

 生きている証拠だから。


 口の中は熱い。

 霧が肺に刺さる。

 視界が滲む。

 それでも、俺は奥へ走った。

 走るたび、足が重くなる。

 筋肉が悲鳴を上げる。

 身体が限界を超えようとしている。

 だけど、止まらない。


 奥に、光が見えた。

 幻想喰いの核。

 この世界の終わりを支える心臓。

 俺は次元刀と赤い刀を強く握り直した。

 呼吸を一つ、短く整える。


 斬る。

 閃光。

 刃が核に触れた瞬間、腕が千切れそうな反動が返ってくる。

 硬い。

 硬すぎる。

 でも、折れない。

 二本の刀は折れない。

 折れるのは、俺の方だ。


「……折れねえよ」


 吐き捨てて、もう一度。


 核が脈打つ。

 脈が、俺の身体の中の脈と重なる。

 気持ち悪い。

 怖い。

 それでも、目を逸らさない。


 幻想喰いの内側が震えた。

 圧が跳ね上がる。

 腹の奥を殴られたみたいに息が止まる。

 視界が白く弾けた。

 そして、身体が浮いた。


 次の瞬間、俺は床に叩きつけられていた。

 全身が痛い。

 骨が軋む。

 視界の隅で、赤が点滅した。

 見慣れた表示。

 嫌になるほど見慣れた表示。


 体力が、ゼロに近い。


 幻想喰いの核が、笑っているみたいに見えた。

 馬鹿にしてる。

 そう感じた時、胸の奥が冷えた。

 俺はもう、ここで死ねない。


 刃を支えに立ち上がる。

 膝が震える。

 握力が抜けそうになる。

 ここで手放したら終わりだ。


 核が膨らむ。

 終わりの一撃が来る。

 避けられない。

 受けたら死ぬ。


 俺は、二本の刀を前に出した。

 防ぐためじゃない。

 踏み込むためだ。


 衝撃が来た。

 視界が真っ白になった。

 耳鳴りだけが残る。

 身体が崩れる。

 倒れる。

 床が近い。


 体力がゼロになる感覚があった。

 それでも、そこで止まった。

 落ちない。

 沈まない。


 息を吸える。

 心臓が動いている。

 分かっている。

 『死神』の称号の加護が、今日も発動した。

 死神を倒し得た称号。

 効果は、一日に一度、死なない。

 それは、この地獄では十分すぎる。


 世界が、遅くなる。

 全身が熱い。

 痛みが消える。

 無敵の時間。

 俺は笑いそうになった。

 笑う余裕なんてないのに。


「……今だ」


 俺は走った。

 今の俺は止まらない。

 止められない。


 核へ。

 刃を振り上げる。


 ——双刃連武!!!

 

 双刃が、俺の筋力をそのまま斬撃に変える。

 斬撃は何重にもなり斬り刻む。


 斬った瞬間、核の感触が変わった。

 硬さの奥が、崩れる。

 壊れる音が、ようやく俺の耳に届いた。


 幻想喰いの内側が静かになった。

 圧が抜ける。

 霧が引く。

 熱が下がる。


 口が、開いた。

 外の空気が流れ込む。

 俺は転げるように外へ出た。

 床に手をついた瞬間、膝が折れた。


 視界が暗くなる。

 疲労が一気に押し寄せる。

 無敵の時間が終わる。

 その直後、身体が勝手に満たされていく感覚がした。

 死神の効果。

 全回復。

 それでも、心は回復しない。


 俺は仰向けになり、天井を見た。

 最下層の天井は、相変わらず黒い。

 でも、その黒が揺らいでいる。

 黒の裂け目から、白い光が差し込んだ。

 ログアウト。

 解放。


 光が世界を塗りつぶす。

 刃の冷たさが、掌から消えた。

 二振りの刃はこの世界に置いていく。

 置いていくしかない。

 相棒、感謝する。

 お前達がいなかったらここまで来れなかった。


 ありがとう。



 次に目を開けた時、天井は白かった。

 薬品の匂いがする。

 機械の音が近い。

 誰かの声が、現実の距離で聞こえる。


「意識は戻りましたか」


「……戻った」


 喉が枯れている。

 声が震える。

 泣いているのかどうか、自分でも分からない。


「帰還、確認できました。あなたは現実に戻っています」


 その言葉で、胸の奥が一気に熱くなった。

 戻った。

 終わった。

 生きている。


 枕元のスマホが震えた。

 画面が光り、通知が並んでいる。

 俺の指はまだ震えていた。

 それでも、震えるまま開いた。


 妹からのメッセージが一番上にあった。


「お兄ちゃん、生きてる?お願い、返事して」


 息が詰まった。

 俺はスマホを握りしめた。

 壊れそうなくらい強く。

 でも壊さない。

 壊したら、俺が帰ってきた意味がなくなる。


 指先で短く打つ。

 余計な言葉はいらない。

 今、この一言だけでいい。


「生きてる。帰った」


 送信。

 画面の上で、小さな送信済みの印が出た。

 それだけで、肩の力が抜けた。


 俺は白い天井を見上げた。

 最下層の黒じゃない。

 現実の白だ。

 ここから先は、別の戦いになる。

 家に帰る戦いだ。

 家族の平穏を取り戻す戦いだ。


 俺は目を閉じた。

 今だけは、眠っていい。

 帰ってきたのだから。

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