2「柳の下での再会」

 陽が沈み始める夕刻。

 辰焔シンエンは外邸にあるひとつの庭園で、石を切り出した冷たい椅子にじっと座っていた。

 柳の木が揺れて、石造りの天板がチラチラと横殴りの陽射しを反射し、時に影を落とす。同調するように、辰焔の心は期待と不安で揺れていた。


 庭園の中、小高い位置にある柳の木の下。

 よくここで会っていた。


 下のほうに人の気配を感じ、思わず机に手をついて腰を上げた。

 だけど、気配はひとりじゃない。声高に叫び、笑い合っている。酔っぱらった武官の二人組といったところだろう。


 ……景烈ジンリエじゃないのか。


 ザラリとした何かが、胸を撫でる。そのまま行ってくれればよかったのに、武官たちは千鳥足で坂を上がって来てしまった。

「なんだなんだぁ先客かぁ~」

 絡まれるのは面倒だ。そっぽを向いて無視していると、二人は顔を見合わせた。示し合わせたかのように、ひとりは机に手を付き、顔を覗き込んでくる。もうひとりには肩にがっしりと腕を回されてしまった。

「な、なにを!?」

「お前だろ~噂の宦官ちゃんって。遠目で見るより可愛いじゃないか」「宦官なのがもったいないな」


 酒臭い息を浴びせられて、腹の底が火であぶられたように熱くなる。


「女みてぇ」「お前みたいのだったら悪くないな」

 舐めるような視線に苛立ちと危機感を覚え、

「ふざけるな!」

 抵抗しようと腕を振り上げたときだった。


 武官たちは急にドサリと机と地面に倒れこんだ。


「てめぇら、こんな時間から飲み過ぎだ。

 訓練で暴れて酒の回りも速くなってんだろ、自重しやがれ!」


 突如響いて懐かしい声に、辰焔の全身がざわりと泡立つ。


「ほら。とっとと帰って水飲んで寝ろ。

 必要なら薬も出してやるが、戦場以外で命を無駄にすんな、ばかやろう」

 長身の男は、武官二人の後ろから首根っこを掴むと、坂から転げ落とすように背中に蹴りを入れた。

「ったく、酔ってるからって弱すぎなんだよ」

 男の手際のよさに、一瞬のうちに、柳の下が静かになった。


「ジン……」

 景烈。そう呼びかけようとして、辰焔は喉を詰まらせた。相手にとって自分は初対面。急に名前を呼ぶなんて、どうかしている。

「医官殿」

 そう言い直す。

「おう。お前だな、こいつをよこしたの」

 ひらひらと掲げて見せたのは、昼に急きょ医局へ届けた辰焔の文だ。

「ったく、きれいな字だから女からのお誘いかと思ったら、名前見てがっかりしたぞ。

 ま、それより大丈夫だったか?」

「あ、あぁ。手間をかけた」

「無事ならそれでいい」


 景烈は席には着かず、柳の木にもたれかかった。


「ったく、この忙しい期待の医官様を呼び出しやがって、どういうつもりだ」

「……」

 辰焔は顔を伏せ、視線を左右に彷徨わせた。膝に乗せた両手が、キュッと丈の長い外套がいとうを掴む。

 顔が見たかった。伝えたいこともある。それでも、会ったら会ったで、言葉が迷子になってしまった。


 景烈は短く、ハァと荒っぽいため息をつくと、ようやく対面の椅子にどかりと腰を下ろした。長い足ははみ出て、無造作に投げ出されている。

「妃の容態について、診療記録は持って来た」

 助け舟を出されて、辰焔は顔を上げた。

 記憶にあるより少し柔らかな輪郭。仕事終わりのせいか、無精ひげが生えている。にわかに香るのは、汗と清酒アルコールの匂い。

 声は聞こえているのに、感情が追い付かずに、内容が頭に入ってこない。

 代わりに――


「おい。泣いてんのか、そんなに怖かったか?」

「へ?」

 思わず自分の頬に触れた。

 指先が濡れたのに気づき、頬が熱くなって片手で顔を覆った。そのまま何も言わずに首を横に振る。

「違う。あのくらいの手合いなら、吹き飛ばせる」

「え、まじか……?」


 華奢でしなやかな体躯の辰焔から飛び出した穏便でない答えに、景烈は頬を引きつらせる。


「ただ、色々と思うところがあっただけだ」

 ぐいと袖で顔を拭って、なんでもないように真っ直ぐに景烈を見つめた。

「礼は言っておく。ありがとう、助かった」

「お、おう。ならいいけどよ……」


 二人のあいだに、気詰まりな沈黙が下りた。

 すっかり陽は落ちて、相手の姿がぼやけてくる。

「ちなみに、話は聞いてたのかよ?」

 いたたまれない空気をごまかすように、景烈から続きを切り出した。

「改めて言っておくが、明日、診察に行くのは、帝のお通いがあった四夫人のおひとりだ。

 妊娠については俺たち医官も管理に尽力している」

「だけど子は流れてしまい、妃自身も病に臥せっている。そんな話だったな」

 この仕事は覚えている。何が原因だったのかも。

「分かってるならいい。俺たちでどうにもできないから、巫術師の出番ってわけだ」

 立ち上がる景烈に、名残惜しさが込み上げ、「あ……」と呼び止めてしまった。

 まだ伝えたいことが残っている。

「ん?」

 月明かりが二人の顔を照らし出し、辰焔は勇気を出してゆっくりと歩み寄った。飾らない景烈の姿に自ずと頬がゆるんだ。

「本当は、顔が見たかった」

 違う。伝えなければいけないのは、そんなことではないのに……。

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