最終話 聖域と沈黙


噴出口の天井が、粘液と腐敗した肉を滴らせながら、ゆっくりと閉じ始めていた。

完全閉鎖まで、あと数十秒。

俺たちの真下では、ラーメン屋台の女が、静かにカウンターに寄りかかっている。

 

「諦めて、お召し上がりください。全てを『無かったこと』にすれば、苦痛もありません」

 

女の声は、この空間で唯一、雑音に邪魔されない、クリアな響きを持っていた。

 


(出口は閉じる。ラーメンを食べれば、これまでの経験が無効化される。

破壊すれば、無限のスケールアップ。

この世界を終わらせるには、「何もしないこと」、あるいは「全てを失うこと」**しか道はない)

 

エリアが俺の腕を掴んだ。その瞳には、恐怖ではなく、初めての確固たる決意が宿っていた。

「もう、いいわ。諦める」

 

彼女は俺の手を離し、ラーメン屋台の女に向かって歩き出した。


彼女が諦めを選んだ瞬間、予言の文字は消えた。

 


(裏切りは起こらない。裏切る対象も、利用する価値も、彼女の中にもう存在しないからだ)

 

エリアが丼に手を伸ばしたそのとき、俺は最後に残された、

唯一の選択肢を実行した。

俺は、エリアを思い切り突き飛ばした。

 

「【聖域の加護】!」

 

黄金の光がエリアを包み、彼女は噴出口の天井が閉じる直前の隙間へ、無傷で弾き飛ばされた。

 

 

俺は、彼女を最後まで「自分以外」として扱い、救済した。

そして、俺は、その場に残った。天井が完全に閉ざされ、世界は暗闇に包まれた。

ラーメンの丼は、誰も食べなかった。

 

《ダンジョンルール :異常な現象を解決した瞬間、その現象がさらにスケールアップして再発動する。》

 

俺は、最後の異常である「ラーメン屋台の誘惑」を解決しなかった。

破壊もしなかった。ただ、無視したのだ。

世界は静寂に包まれた。スケールアップは起こらない。

ラーメン屋台の女が、初めて表情を歪ませた。驚愕の色だ。

 

「解決されなかった……このままでは、このフロアの法則は『無効』になります」

 

女は、慌てて天井の噴出口を指さした。

エリアが突き飛ばされた先の、巨大生物の体外、つまり外の世界を。

「貴方は、すべてを救うつもりですか!?」

 

俺は、全身の火傷と疲労で倒れ込みながら、

最後に残された力を振り絞って、自分自身にスキルを発動しようとした。

「【聖域の……」

 

だが、スキルは発動しない。

 

《主人公のチートスキルは、自分以外にのみ発動する。》

 

俺は、その無力な手を、この巨大な閉鎖空間全体に向けた。

そして、心の底から叫んだ。声は、脈動する肉壁の雑音にかき消され、誰にも届かない。

 

《ダンジョン制約 :登場人物の理性的な議論は、必ず物理的な「雑音」によってかき消される。》

 


(俺は、この巨大なダンジョンそのものを、「俺自身ではない存在」として、愛することにした)

 

スキル【聖域の加護】が、この巨大生物のダンジョン、そしてその外の世界全体を対象に発動した。

世界を包み込む、まばゆい黄金の光。

 

『この世界へのあらゆる物理・魔法干渉を完全に遮断する』

 

この世界は、完全に「救済」された。

誰も侵食されず、誰も傷つかず、誰も進化しない、永遠に安全で、閉鎖された世界に。

俺の体が、光の源となり、消滅していく。

 

 


(――このあと、温かいスープが飲めたらよかった。替え玉は、硬めで頼むんだ。

紅生姜はたっぷり。あのラーメンが、この世のすべてだった)

 

それが、俺の最後の、誰にも届かない「理性的思考」だった。

俺は消えた。

 

エリアは、噴出口から投げ出され、巨大生物の体外へ脱出していた。

彼女の体は無傷だ。

彼女は、自分を突き飛ばした男の言葉を、雑音の中で正確には聞いていない。

彼女の周りに、裏切りの予言はもう流れていない。空は沈黙している。

彼女は、生き残った。

 

 

誰も生き残る必要はなかった。だが、誰も死ななくても、物語は終わる。

なぜなら、物語を動かした主人公自身が、その「ルールの対象」となって消えたからだ。

誰も救われないが、誰も間違っていない。

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自分以外、鉄壁。~裏切りの予言と絶望のループ〜 キンポー @kinposakatani

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