放送#09:小料理屋(ランチ)—静けさはお釣りで戻る—
静けさは、定食についてくることがある。
三好 恒一、四十六歳。整えるのは部屋じゃない。耳と呼吸だ。
昼は、いったん世界の音量を下げたい。胃のあたりから、ゆっくり人間に戻りたい。
のれんをくぐると、出汁の匂いが先に来た。カウンターと、小さなテーブルが二つ。昼の小料理屋は、声が小さくてもよく通る。湯気の立つ味噌汁の匂いと、皿を重ねる乾いた音。壁の時計の秒針だけが、一定のテンポで店内を区切っている。こういう店は、しゃべらなくても居場所がある。
「いらっしゃい」
店主は短く言って、おしぼりを出した。厚めで、熱い。掌に包むと、そこだけ別の季節になる。
(よし、今日は、いける)
……と思った矢先。右隣にいた常連がこちらを見た。見た、というより”置く”。逃げ場のない角度で。
「あれ、兄ちゃん初めて?この辺の人?」
来た。頭の中でジングル。
――第一部。
(昼の静けさに、住所確認が混ざっている。尋問されているみたいだ)
三好は笑って、曖昧に頷く。曖昧は、境界線を引くための便利な道具だ。
「そうなんだ。仕事は?会社?自営?」
質問が挨拶の顔をしている。距離が近い人は、近さを悪いことだと思っていない。むしろ、善意で押してくる。
(距離圧って、息が浅くなるタイプの親切だ)
三好はおしぼりをゆっくり畳んだ。角を揃えると、呼吸も揃う。
「ええ、まあ……そのへんで」
言葉を減らす。声を薄くする。ここはフェードアウトさせたい。
――そのとき、ポケットのスマホが短く震えた。
(助かった。境界線の材料が来た。電話にでるふりをして逃げる)
三好は画面を一瞬だけ見て、少し困った顔の”ふり”をした。
「すみません、ちょっとだけ……折り返しを」
立つ。席を外す。それだけで受信距離が変わる。音は同じでも、刺さり方が変わる。
三好は店の端、のれん寄りの壁際に寄って、スマホを耳に当てる。通話のふりをする。
「……はい、了解です。すぐ返信します」
小さく頷いて、指先だけで短く打つ”ふり”。深呼吸をして、主導権を戻す。
三好は席に戻ると、常連はすでに右隣の客へ向き直っていた。ターゲットが移っている。
(よし、ターゲットから外れた。絡まれているあの客には悪いが、助かった。――メニューを選ぶか)
――第一部、フェードアウト。
メニューを選ぶ。日替わりの焼き魚定食。余計な選択肢は増やさない。昼は回復の工程にしたい。
「焼き魚定食をお願いします」
店主は短く頷いて、奥へ引っ込んだ。鉄板の上で、何かが焼ける音がする。ジュッ。脂の匂い。出汁の匂い。この店の音は、基本が”生活”でできている。だから安心する。
……と思っていたのに。
「でさ、結局どこ行っても同じだよ。上が腐ってんの」
来た。カウンターの端、作業着の男が、連れに向かって低い声で吐き出している。声は低いのに、店の静けさが増幅して、妙にくっきり耳に刺さる。
「俺らはさ、現場で汗かいてんのにさ。あいつらは机で――」
「分かる分かる。でもさ、それ言っても変わんねえし」
言葉が、愚痴の形をしているのに、空気を支配し始める。
――第二部
(静けさって、癒しにもなるけど、拡声器にもなる)
三好は箸袋を指で撫でた。紙の感触に、意識を戻す。耳を閉じたいわけじゃない。ただ、受信しすぎたくない。店主がお盆を運んでくる。味噌汁の湯気。小鉢。漬物。白飯。焼き魚の皮が、少しだけ光っている。
「お待たせ」
お盆が置かれた瞬間。世界が一段だけ整う。三好は箸を割る。パキッ。小さな音が、主導権の合図になる。まず、味噌汁に手を伸ばす。湯気を一回吸って、息を戻す。それから焼き魚をほぐす。箸先が、皮と身の境目に入る。口に運ぶ。しょっぱい。出汁が優しい。舌が”昼”を受け取り始めると、耳のチャンネルだけが少しだけ狭くなる。
……のに、愚痴の声は続く。
「俺さ、昨日も帰るの結構遅くて」
「家庭持っているときついよな」
励ましの形をした愚痴が、二周目に入る。ここで三好は、気づく。自分が”相槌の役”に引き寄せられそうになっている。
(危ない。ここに座っているだけで、俺も会話の一部にされる)
だから、手順を増やす。お茶を飲む。箸を置く。小鉢を一つ片づける。味噌汁を飲み切る。工程を前に出すと、余計な電波は後ろに下がる。そのとき、店主がカウンター越しに、作業着の男へ向けて短く言った。
「……今日は、塩強めだから、味噌汁で調整してくださいね」
注意でも、説教でもない。料理の話だ。それなのに、空気の重さだけがすっとほどける。男たちも一瞬、黙って味噌汁をすすった。
(うまいな。話題を変えるんじゃなくて。”戻す”。人じゃなく、食べ物に)
三好はその隙に、残りを食べきる速度を上げた。
口の中の塩気が、ちゃんと現実に戻してくれる。ここは告解室じゃない。昼飯の場所だ。箸を置く。手を合わせるふりで、息を一つ落とす。
伝票を指先で押さえて立ち上がる。カウンターへ向かう数歩のあいだ。背中でまだ声が続いている。でも、刺さらない。距離がさっきよりも離れた。
硬貨の音。トレーの乾いた音。紙幣の擦れる音。会話よりも”生活の音”のほうが前に出る。小料理屋の昼は、最後にこうやって整う。
「……ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
――第三部
たった二往復のやり取りなのに、空気が締まる。言葉が短いほど、余計な意味が混ざらない。ここでは、それが救いになる。背中のほうで、作業着の男がまだ何かを言っている。でも、会計を済ませた瞬間、あの声は”店の中の音”に戻る。自分に向いた電波じゃなくなる。
(会計って、放送終了ボタンだな)
のれんに手をかける。外の光が、昼の残りを連れてくる。出汁の匂いが、ふっと薄くなる。代わりに、外気が入ってくる。のれんをくぐった瞬間、静けさが一枚、手元に戻る。お釣りみたいに。
三好はポケットの中で、小さく息を整えた。
――妄想モードが勝手に立ち上がる。
A:常連は、初見客に話しかけるのが”店の味”だと思っている。話しかけて、反応を見て、距離を測る。測れたら満足して、次の客へ行く。
B:作業着の男たちは、愚痴を吐きに来ているんじゃない。”夜まで持たせるためのガス抜き”をしに来ている。味噌汁で塩分を戻すみたいに、言葉で呼吸を戻している。
C:店主は、誰の話も止めようとしていない。ただ、店が「告解室」になりすぎないように、手順と匂いで現実へ戻している。出汁と秒針で、音量を整えている。
どれもありそうで、どれも違いそうで、だから面白い。
だから、ここで止める。
三好はスマホのメモを開き、三行だけ打った。
・静けさ=癒しにも拡声器にもなる
・会計=放送終了ボタン(静けさはお釣りで戻る)
・曖昧=境界線の道具
(ラジオ放送、以上。)
――次は、バーだ。静けさはある。距離も、近い。
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