放送#08:床屋の待ち席—似合うは楽に見える—
床屋の待合は、逃げ場が少ない。
三好 恒一、四十六歳。整えるのは部屋じゃない。耳と呼吸だ。
床屋は静かそうで静かじゃない。音が少ない分、声がよく通る。
仕事終わりの夕方。肩の奥に、まだ一日分の重さが残っている。このまま帰ると、家まで”受信”したままだな――そう思って、三好は床屋のドアを押した。
入り口のベルが小さく鳴り、薬品とシェービングフォームの匂いが鼻をくすぐる。待合の正面には大きい鏡。鏡はカット席だけじゃなく、待合まで映す。逃げ道まで映す。逃げるな、と言っている。混んでいた。呼ばれるまで二人待ち。
三好が腰を下すと、隣に常連風の男がいた。座った瞬間から、もう話しかける気配がする。息を吸う音で分かる。
「兄ちゃん、今日は仕事帰り?」
「ええ、まあ」
答えてしまった。入り口を開けた。
「やっぱ社会人はさ、平日も無駄にできないよな。最近の若いのはさー」
来た。頭の中でジングル。
――第一部。
(番組、こっちの都合を聞かない)
男の声は、待合の空気を自分のものにしていく。ここ、あなたの客間じゃない――と言いたいが、言えるわけもない。公共の場は不思議だ。個人の価値観が、急に共有物になる。
(後悔説教、開廷中。傍聴席、満席。しかも、今回は強制出廷。境界線を引かないと、終わらない)
三好は雑誌ラックに手を伸ばした。読むためじゃない。壁を作るために。
パラパラとページをめくる。紙が立つだけで、世界が一枚ぶん遠のく。
(受信を切る。紙で切る。)
「いや、だからさ。普通こう――」
男は止まらない。三好は返事の代わりに、ページを一枚だけ大きくめくった。
バサッ。
紙の音は小さい。でも、境界線の音としては十分だった。男の視線が「話、続ける?」を探してくる。三好は雑誌の文字にピントを合わせる。ピントが合っている”ふり”でもいい。その瞬間、奥から声がした。
「次の方、どうぞー」
男は「お、俺ね」と立ち上がる。カット席に向かい、ベテラン店員の椅子に座った。ケープがかけられる。鏡越しに男が映る。
「いやさ、社会人としてはさー」
男の声が鏡で跳ね返って戻ってくる。ベテラン店員は「そうですねぇ」と柔らかく返しながら、ハサミを動かしている。受け流しの技能が高い。でも、音は消えない。床屋は、音が逃げにくい。
店主がもう一人の客を仕上げている。ドライヤーの音が短く鳴って、止む。音が止むたびに、男の声だけがくっきり残る。仕上げが終わり、店主がタオルを外す。会計。カット席の周りに散った髪を箒で掃き、席を整える。そして、店主が言った。
「お待たせしました。次の方、どうぞー」
呼ばれた。三好は雑誌を閉じる。道具は、必要な時間だけでいい。カット席に座る。ケープ。首にタオル。目の前が鏡。鏡の中に自分が現れる。逃げ場のない角度で。
鏡は正しい。嘘をつかない。今日の自分の顔は、少し固い。口角が落ちて、目が乾いている。ついポケットのイヤホンケースに指が触れる。逃げる癖。
――でも今日は別ルートだ。鏡で戻る。
(戻れ。ここは床屋だ。裁判所じゃない。)
店主が聞く。ハサミの音がまだ鳴っていない静けさ。
「今日は、どうします?」
その間に、隣の男が割り込んでくる。
「男は短くしてりゃいいんだよ。流行りとか、いらないんだって」
――第二部。
男の「男は」が硬い。主語が大きい。三好の肩が少しだけ上がり、息が浅くなる。鏡の中で、それが見える。
(「男は」って便利だな。自分の好みを、全員のルールにできる)
三好は吸って、吐く。吐くほうを長くする。鏡の中の肩が、ほんの少し下がった。よし。
三好は一瞬迷ってから、言った。
「……短くし過ぎると、疲れて見えるので。ほどほどで」
言えた。”流行り”でも”男は”でもなく、”疲れて見える”という自分の軸。店主が鏡越しに頷く。
「分かりました。じゃあ、”楽に見える長さ”でいきましょう」
その言い方が、良かった。正しさじゃなく、呼吸の方向で話してくる。
――ここで男が、もう一段押してくる。
「いやいや、短いほうが仕事できそうに見えるって。ナメられないし」
「はいはい、じゃあ、まず顔剃りいきますね。タオル失礼します」
ベテラン店員が、男の口元にタオルを当てた。ふわっと泡の匂い。カミソリの気配。男は反射で口を閉じる。顎を少し上げる。床屋には作法がある。顔剃り中は、喋れない。
「……ん、んんー」
言いかけた声がタオルに吸われる。ベテラン店員が淡々と言う。
「動くと危ないんで、少しだけ静かにお願いしますね」
その一言は説教じゃない。手順だ。安全だ。男は「……」になった。店内から、急に余計な”意味”が抜けた。
カミソリの音が、静かに鳴る。シャッ、シャッ、と短いリズム。さっきまで公共財を買い占めていた声が、床屋の作法で一時停止する。
第二部、強制終了。
(……今の、助かるな。さすがベテラン店員。これで一呼吸付ける)
三好の胸が、ほんの少しだけ緩む。逃げ場のない密室にも、切れる瞬間がある。人じゃなく、作法が切ってくれる。
カミソリの音が続くあいだ、店内は”工程”だけになる。意味が薄まり、手順が残る。床屋の正解は、だいたい手順のほうにある。
店主が、三好の肩に軽く手を置いた。
「お待たせしました。では、こちらも始めますね」
――第三部。
コームが髪を持ち上げる。ハサミが小さくなる。チョキ、チョキ。刃が切っているのは髪だけじゃない。今日一日ぶん、首の後ろに溜まっていた”ざわざわ”まで落ち着いていく感じがする。店主が鏡越しに言う。
「今日は、お疲れの顔ですね。――短くしすぎると、余計疲れて見えるので」
さっき自分が言った言葉が、別の形で返ってきた。
「少し”軽く見える”ほうに寄せます。楽に見える長さで」
(いい。正しさじゃない。”男は”でも”社会人は”でもなく、今日の俺に合う言い方だ)
ハサミの音が続く。チョキ、チョキ。時々、バリカンが短く唸る。短い振動が、耳の外側で撫でていく。
隣の男が仕上がり、椅子から降りる。男は会計へ向かう。ベルが鳴って、男は外へ消えた。
(これで少しは落ち着く。)
店主が言う。
「では、最後に顔剃りいきますね。タオル失礼します」
温かいタオルが頬に乗る。泡の匂い。シェービングフォームの甘さと薬品の気配が混ざる。口が自然に閉じる。喋れない。喋らなくていい。
(これだ。床屋の顔剃りは、強制的に”静かになる時間”。受信じゃなくて、手入れ。意味じゃなくて、手順)
カミソリの短いリズムに合わせて、呼吸が整っていく。肩が落ちる。目の奥の乾きが、少しだけほどける。タオルが外れる。鏡の中の自分は、さっきより口角がほんの少し上がっている。――整ったというより、戻った。
仕上げに温風が首筋を通り抜ける。肩の奥の固さが、もう一段だけゆるむ。整髪料の匂いが軽く乗り、輪郭が柔らかくなる。
店主が言う。
「はい、こんな感じで。――楽に見えます」
三好は小さくうなずく。ケープが外れ、首のタオルが取れる。肩に乗っていた一日分の重さも、少しだけ落ちた気がした。会計を済ませる。ドアを開け、外へ出る。
――妄想モードが勝手に立ち上がる。
A:男は家で誰も話を聞いてくれない。だから外で、誰かに”聞いてもらう”を回している。三好はたまたま巻き込まれただけ。
B:男は家でも、”社会人は”を回す。家族はいつものことなので、軽く流す。
C:次回から、男は髭剃りの前に「俺、静かにするわ」と言う。でも途中で、やっぱりもごもご話してしまう。
どれもありそうで、どれも違いそうで、だから面白い。
だから、ここで止める。
三好はスマホのメモを開き、三行だけ打った。
・雑誌=紙の境界線
・「男は」=主語が大きいほど圧になる
・作法=人格を刺さずに音を切る刃
(ラジオ放送、以上。)
――次は、小料理屋だ。会計で切る前に、ほどける一言を拾いたい。
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