放送#10:バー—氷が溶ける前に—
バーは静けさの密室だ。だから声も、濃縮される。……自慢も。
三好 恒一、四十六歳。整えるのは部屋じゃない。耳と呼吸だ。
夜の外気を胸に入れたまま、扉を押す。
鈍い鈴の音。照明は低い。声は少ない。ジャズがゆったり流れ、たまにグラスの音がするだけだ。
(よし、当たりの店だ。)
三好はカウンターの端に腰を下ろした。出口が視界に入る席。逃げ道が見えると、呼吸が深くなる。
「メニューをどうぞ」
マスターが差し出す。開く。選択肢が多い。雰囲気のいい店ほど、迷わせる顔をしている。
(今日は”赤”。こういうときは、色で決める)
三好は短く言う。結論だけ。
「カンパリソーダをお願いします」
「かしこまりました」
グラスがコースターの上に置かれる。丸い紙。乾いた白。境界線。氷が一度だけ鳴った。
カラン。
三好は味の前に色を確かめる。薄暗い店内で、赤が小さくきらめく。
(いい色だ)
次は喉で確認する。一口。赤い苦みが、喉の奥で輪郭を作る。甘くない。やさしくもない。だからいい。この苦味は、誰にも説明しなくていい。
グラスを置く。余韻に沈もうとした、その瞬間――番組が差し込まれる。
右側、二席向こう。声が刺さった。
「いやー、あの案検査、結局俺が火消したんだよ。俺いなかったら終わってた」
来た。頭の中でジングル。
――第一部。
(武勇伝。しかも音量で殴るタイプ。酒で声の”つまみ”が壊れている)
男の声は、店の静けさを”舞台”に変える。
「上が無能でさ。俺が言わなきゃ誰も動かないわけ。マジで、俺だけが分かってた。
「……だよな」
「そうそう、チームって言うけど、実際は動ける一部のメンバが頑張ってんの」
「……まぁ……それはある」
「しかもその中でいちばん働いているが俺なんだよね。一人で三、四倍は働いてるのよ」
「……マジで」
(相槌が入ると、武勇伝は”確定”になる。三、四倍は数字じゃなくて”勝ちの演出”。ここ、決算発表会場じゃない)
三好はもう一口飲む。炭酸が舌を洗って、苦味が残る。落ち着く。
……落ち着いたはずなのに、声は落ちない。
カラン。氷が小さく鳴る。
(頼む。氷よ、勝ってくれ)
氷は正直だ。溶ける。薄まる。時間の方向がひとつだ。武勇伝は逆だ。熱が増える。過去が膨らむ。終わりが見えない。
三好はコースターの縁を指でなぞった。丸い境界線。内側は自分。外側は公共財。指先だけで柵を作る。安い防波堤だが、ないよりはいい。
鈍い鈴が、もう一度鳴った。客が増える。二人組。三人組。椅子が引かれる音。静けさは薄まる。――でも、救われない。密室は、密室のまま”満員”になる。
武勇伝は、まだ燃えている。相槌で酸素をもらって、さらに燃えるタイプだ。
(第一部、絶賛継続中。……終わる気配なし)
そこへ、入り口の鈴が少しだけ弾むように鳴った。遅れて入ってきた男が、店内の空気を”自分の店”みたいに扱う歩き方をしている。常連の顔。連れを引き連れ、席に座る。
「ここ、ちゃんとしてる店だから。」
「そんな雰囲気ある」
「まず一杯目は、ここではジントニックが正解。ライムは搾りすぎないやつ」
「へぇ」
「マスター、ジントニック、二つ」
――第二部
(”正解”を配るの、やめてほしい。俺が間違ってるみたいに聞こえる)
音量は大きくない。だから余計に逃げにくい。静かな店ほど、言葉の輪郭がはっきり刺さる。右側では武勇伝がまだ熱い。どっちも、密室の中で濃くなる。
「氷もさ、見て。透明度。ここはちゃんと冷蔵庫臭くない。氷で店のレベル分かるから」
「そうなんだ」
「で、二杯目はステア系に移る。シェイクはね、雑に店が多いんだけど、ここのマスターはすごいから」
(当たりの店に、当たり顔で”解説”が付く。いちばん要らないサービス。あと、解説ばっかりしてないで、さっさと乾杯してあげて)
三好は赤い苦味をもう一度飲んだ。味は変わらない。けれど、店の”静けさの価値”だけが、じわっと薄まっていく。
カラン。氷が小さく鳴る。
(氷は薄まるのに、解説は薄まらないのか。このままだと、飲み終わる前に消耗する)
三好はグラスをそっと置き、立ち上がった。音を立てない。目線も投げない。ただ、席を外す。密室の中でできる、いちばん小さい撤退。
トイレの表示は店の奥。短い廊下。照明が一段だけ明るい。扉を押す。空間が変わる。匂いが変わる。音の種類が変わる。個室のドアが締まる音。水の音。換気扇の一定の回転。バーの会話が、壁の向こうで、"遠いBGM"になる。
(よし、ここは受信が薄い)
三好は洗面台の前で手を洗った。冷たい水。指先の感覚が戻る。息を吸って、吐く。吐くほうを長くする。胸の内側の”つまみ”を、少しだけ下げる。
(決めた。戻ったら残りを飲んで会計。今日は一杯で切る。氷が溶ける前に)
手を拭き、扉を開ける。廊下に戻る。密室の音がまた近づく。――でも、主導権は戻っている。
席に戻る。武勇伝も、解説もまだ続いている。けれど、さっきより刺さらない。
(第一部も第二部も継続中。でも、俺は終わりを決めた。これが何よりの境界線)
三好はグラスを持ち上げ、残りをゆっくり飲む。赤い苦み。炭酸。輪郭。氷が小さく鳴る。
カラン。
――そのタイミングで、マスターがカウンターの内側から、いつもの速度で歩いてきた。声は出さない。必要なだけの動作を置く。マスターは、常連の席に氷のグラスを二つ置く。チェイサー。置き方が丁寧すぎて、会話が一拍だけ止まる。止まった”間”にマスターが低く、軽く言う。
「氷が溶ける前に、まず一口。――今日はそれで十分うまいですよ」
――第三部
(ほどく言葉って、たいだい短い。しかも、誰も刺さない)
常連が言いかけて止まった。友だちが「じゃ、飲むか」と笑って、グラスを持ち上げる。解説が”雑談”に戻る。輪郭が柔らかくなる。武勇伝も、ほんの少しだけ温度が下がった。水が入ると、会話は一度現実に戻る。三好は、最後の一口を飲み切った。グラスを置く。
カラン。
(……いい店だ。こういう一言があると、ここに”もう少し”居たくなる)
そこで、頭の隅から”三”が顔を出す。バーは三杯まで、とか。三好だし、とか。今なら二杯目、行ける気もする。――いや、三杯まで、いける気もする。
(この誘惑がいちばん危ない。静けさに酔うと、居座りたくなる。でも決めた。今日は一杯で切る。決めたほうが勝ち)
三好はマスターへ視線だけ送った。声は出さない。動きで伝える。マスターが小さく頷く。
「お会計、お願いします」
伝票が置かれ、三好は支払いが済ませる。席を立つ。鈍い鈴。扉が開く。外の空気に触れる。密室が開く。音が散る。肩が軽い。
――妄想モードが勝手に立ち上がる。
A:常連は友だちを喜ばせたいだけで、”正解”を並べているうちに自分が気持ちよくなって止まらなくなっている。
B:武勇伝は火消の話をしているようで、本当は「えらい、頑張ったな」が欲しいだけ。けれど素直に言えず、武勇伝になる。
C:マスターは止めたいんじゃない。店を店のままにしたいだけ。水と一言で、番組を”店内BGM”に戻している。
どれもありそうで、どれも違いそうで、だから面白い。
だから、ここで止める。
三好はスマホのメモを開き、三行だけ打った。
・トイレ=受信を切る非常口
・静けさ=密室(声が濃縮される/番組表が増える)
・氷=時間の境界線(溶ける前に切る)
(ラジオ放送、以上。)
――次は、立ち食いだ。静けさは、湯気の中にある。
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