放送#07:平日夜の電車—疲労は伝染する—
平日夜の電車は、疲労が「音」になる。
三好 恒一、四十六歳。整えるのは部屋じゃない。耳と呼吸だ。
昼に使った言葉を、夜にもう一回片付け直す。そういう時間帯がある。たぶん、今がそれだ。
ホームに立った瞬間から、空気が重い。人の体温とため息と、焦りが混ざってくる。ドアが開く。押し合いの波に押されて乗る。座席は埋まっている。三好はつり革を掴む。掴むと、少しだけ自分の輪郭が戻る。足元の揺れが、手の中に集まる。耳の方は油断すると勝手に開いてしまう。
(静かにしろ、とは言わない。せめて、削る言葉は受信しないでくれ)
そう思った矢先、すぐ右隣から「ため息」が飛んできた。
来た。頭の中でジングルが鳴る。
――第一部。
「……はぁ、マジでしんどい」
声は小さい。だが回数が多い。小さい針が、一定間隔で突き刺さってくる。斜め前のサラリーマンが、スマホを見ながら独り言を流している。
「今日も残業だしさ……明日も早いし……上、何も分かってないんだよな」
誰に向けた愚痴でもない。なのに、車内に放送される。
(疲労愚痴の無料配布。受け取った側が代引きで強制的に支払うシステム。
欠陥だらけじゃないですか。)
愚痴は伝染する。言葉というより、心に移る。三好の胸の奥から少しずつ黒いモヤが広がるのを感じる。サラリーマンは、愚痴の中に少しずつ「正しさ」を混ぜ始めた。
「社会人としてさ……普通こうするじゃん」
来た、「社会人として」。夜は疲れているせいか、よく通る。
(社会人として、電車の中で「普通」を配らない。そういう講習、ありませんか。)
つり革を握る手に力が入った。握るほど、揺れが手の中に跳ね返ってくる。耳が勝手に相手の文脈を補完して、過去の嫌な記憶まで引っ張り出してくる。
――違う。今日は、受信を切る日だ。
三好はポケットのイヤホンケースに手を伸ばす。その瞬間、左側から、もっと重い声が割り込んできた。
「……うん、ごめん。今じゃないと、言えない」
通話だ、車内で。声は抑えている。だが内容が、抑えられていない。三好の耳に張りつくのは、通話している「こっち側」だけだ。相手の声は聞こえない。片側通行のほうが耳に刺さる。
頭の中で、ジングルがもう一段だけ上書きされた。
――第二部。
「急に言うみたいでごめん」
「……うん」
「最近、会うたびに、私がどんどん無理してるような気がして」
「だから……嫌いになったとかじゃなくて、疲れた……って感じなの。
自分でも嫌になる」
「ちゃんと話そうと思ってたのに、電話でごめんなさい」
「……うん」
「……うん、分かるけど……もう、頑張らなくていいと思うの」
(なんで電話の声は、どんなに小さく話していても、普通の会話より耳に刺さってくるんだろう。耳が傍聴席の最前列に座っている感じだ。しかも内容が分からないから、妄想モードまで立ち上がってくる。)
つり革を握る手が、また強くなる。車内の揺れが、やけに大きく感じる。
サラリーマンたちの愚痴とため息はまだ続いている。右からは愚痴とため息の疲労コース、左からは電話の片側別れ話コース。両方の耳で二つの番組を受信している。
胸の奥から黒いモヤも広がってくる。しかもスピードがさっきの倍。
(俺は聖徳太子じゃない。面白い話はいくらでも聞くけど、夜にこういうしんどいのは勘弁してほしい。体の疲れが倍になる感じがする。もう、境界線を使うしかない。)
三好はイヤホンを耳に入れた。番組が強いため、アップテンポの音楽を流す。
……流したはずなのに。
「……社会人として……」
「……うん、だからごめん……」
聞こえる。音楽の向こうから、しぶとく貫通してくる。音量を上げれば耳が疲れるだけだ。
(ガードしてるのに貫通。やたら電波が強い番組だな。しかも二番組同時。)
三好はイヤホンを外した。
(イヤホンでは逃げられない。疲れも倍増するし、酸素不足になる。別の境界線、車両移動を使う。)
アナウンスが流れた。三好はホームに出る準備をする。
(あと十数秒、残った体力でしのごう)
チャイムが鳴る。三好は急いで車両の外に出た。
――第二部、フェードアウト。
隣の車両はだいぶ混雑していた。
(この混雑状況で乗るか、それとも見送って次の電車を待つか。さっきの二番組同時受信で結構疲れた。深呼吸したい。それに、急いで家に帰る用事もない。よし、見送ろう。)
次の電車が来るまでの数分間、三好は深呼吸をして呼吸を整える。
来た電車に乗る。前の電車よりは空いている。
(見送って正解だった。席も空いてるし、座れそうだ。)
その時、入り口から荷物の多い人が入ってきた。左手には紙袋、右手には小さな子どもの手を引いている。子どもは眠そうで、足元がふらつく。三好は座らなかった。というより、席を譲ることにした。つり革を掴むが、さっきよりも少しだけやわらかく握れる。隣の男性が半歩ずれて、通路を空けた。反対側の女性が、無言で自分の鞄を引いた。声のない譲り合い。子どもが席に座る。親が「ありがとうございます」と小声で言う。
――第三部。
(みんな疲れていて、席に座りたい気持ちがありながらも子どもに席を譲る。そういう優しさは心に染みる。)
「……座って。今日はたくさん歩いたでしょ」
「うん。でも、たのしかった」
「楽しかったね」
「また行きたい」
「そうね、また行こうね」
(こういうやりとりを聞いていると、ほっこりしてくる。)
夜の小さな救い。三好は胸の奥の黒いモヤが霧散していき、疲れた体が少しだけ回復したように感じた。降りる駅に着いた。ドアが開き、三好は降りた。足取りは軽やかだ。
――妄想モードが勝手に立ち上がる。
A:電話の相手とは本当に終わった。終わらせたことで気持ちがスッキリして、明日からまた頑張れる。
B:電話の相手とは結局、終わらせることができなかった。保留のままで、次の週末に会ってちゃんと話すことになった。だからそれまでは、無理している状態がずっと続く。
C:そもそも別れ話じゃない。ただの「今日しんどいから愚痴聞いて」の電話。こっちが勘違いして重く受信してしまっただけ。
どれもありそうで、どれも違いそうで、だから面白い。
だから、ここで止める。
三好はスマホのメモを開き、三行だけ打った。
・疲労愚痴=伝染(強制代引き)
・電話=片側でもやたら刺さる(補完しすぎ注意)
・席の譲り合い=ほっこり(心に染みる)
(ラジオ放送、以上。)
――次は、床屋の待合席だ。静けさは雑誌で作る。
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