放送#06:映画館ロビー—感想は提出物じゃない—
上映が終わった瞬間、静けさが来ると思っていた。
三好 恒一、四十六歳。整えるのは部屋じゃない。耳と呼吸だ。
ロビーは、暗闇の出口に置かれた「提出口」だ。感想が、いちばん先に回収される。しかも用紙は配られていないのに、みんな勝手に書き始める。
スクリーンの最後の一秒が消えて、場内灯が点いた瞬間、人は「現実」に戻る。戻るというより、押し出される。席を立つ音、コートの擦れる音、誰かの笑い声。余韻は薄い紙みたいに、すぐ破れる。手の中には半券。指先だけが、まだスクリーンの温度を覚えている。ポップコーンの甘い匂いが残っている。絨毯の柔らかさが、映画館を現実より少し夢側に寄せている。
人の波がロビーに溢れる。そして、声が先に立つ。
「いや、あれはさ、”かった人だけが泣ける”やつでしょ」
「てか伏線、回収しきれてないよね?あれで泣くの、浅いって」
「前作見てないと無理だよ。見てないのに語るのは危ない」
「これ、監督の前作見てないとさ、そもそも無駄だよ」
「うわ、それ知らないの?じゃあ語れないじゃん」
来た。頭の中でジングル。
――第一部。
(感想って、提出物でしたっけ。それに、”語る権利”の入場券、販売してません)
声が大きい。断定が多い。正解の匂いがする。上映中は同じ暗闇に座っていたのに、出た瞬間に席順が決まるみたいな喋り方だ。
(”分かった側”の音量、公共財を買い占めがち。)
三好は息が浅くなり、足を止める。映画は確かに刺さった。でも、その刺さり方に点数を付けられると、体が勝手に縮む。
(「泣けた」が、いつの間にか”採点対象”にされている。あれはただ「泣けた」だけでいいんだよ)
「結局さ、あれは”赦し”じゃなくて、”許し”なんだよ。漢字が違う」
「はいはい、言葉遊び。好きよねー」
(言葉遊びは好き。でも、殴るための言葉は好きじゃない。)
イヤホンケースに手が伸びそうになる。
――いや、ここは違う。音で覆うと、余韻がいちばん先に死ぬ。
(逃げるなら、パンフ棚だ。ここは無言の避難所。この映画は刺さった。刺さり方まで他人に提出する必要はない)
三好はパンフ棚に移動した。
第一部、フェードアウト
三好はパンプを眺める”ふり”をする。紙の匂い。インクの匂い。指で半券を折る。折り目を作る。小さな儀式。
(これで少しは余韻に浸れる)
――と思った瞬間、背中から声が刺さってきた。
「で、どうだった?泣いた?」
「……泣いてない。普通に、面白かったけど」
「”普通”って何。好きじゃなかってこと?」
「いや、そうじゃなくて。面白かったよ」
「じゃあどこが面白かったが言って。どこが?」
「どこかって……」
――第二部。
(映画の感想が、圧迫面接に変わる瞬間。こういう質問がいちばん逃げにくい。見当違いなことを言うと、もっと詰められそうで――模範解答が欲しくなる)
話しているカップルの距離は近い。近すぎる声は、圧に変換されやすい。上映後の温度のまま、二人の会話だけが先に走っている。言葉の形は「感想」なのに、中身は「相性の採点」だ。正解を当てられないと、関係が減点される。そういう空気。
「私さ、この映画観て泣かない人、ちょっと無理かも」
「……ごめん」
「なんで謝るの。謝るってことはさ、やっぱり私が正しいって思っているわけ?」
(謝る対象、映画じゃなくて生活にしてあげて。……でも、この雰囲気だと生活の中でも、たびたび謝ってそうだ)
男のほうが黙る。言葉がないのに、音だけが増える。ため息。靴音。人の流れ。沈黙は、声よりも大きくなることがある。
三好は半券を握り直した。紙が、しっとり湿る。ここで聞き続けると、映画の余韻が「誰かの採点」に染まる。
今日は、この余韻だけは守りたい。
(もう一度、逃げる。今度はトイレに)
三好はパンフ棚から離れ、トイレの方向へ歩いた。廊下の冷たい空気が、耳を一段だけ遠ざける。トイレ前の小さな列。誰も喋らない。やっと公共財が空く。
個室のドアが閉まる音。水の音。手を洗う音。洗面台の白さが、頭の中のノイズを少しだけ漂白する。手を洗う時間だけは、誰にも奪われない。ここで深呼吸をして主導権を戻す。
手を拭いて、ロビーへ戻る。
戻った瞬間、また音が押し寄せる。提出口は、休憩時間がない。
「いや、だから前作観てないと――」
「”分かった人だけ”って言い方、きつくない?」
「でも事実でしょ。分からないなら黙っとけばいいのに」
声が、まだ正解を運んでいる。三好は立ち止まらない。止まると、また息が浅くなるのを知っている。
(音量は戻る。でも主導権も戻っている。受信は不可避。だから、処理の仕方を選ぶ)
半券を財布にしまう。”ここまで”を閉じる動作。余韻にフタするためじゃない。持ち帰るための包装だ。
パンフ棚の前を通り過ぎると、別の声が耳に入る。今度は、低くて小さい。親子らしい二人。子どもが上を向いて言う。
「パパは、あの映画って泣く映画だったの?」
「……泣く人もいるし、泣かない人もいる。大事なのは自分がどう感じたかってことだ。○○は、どう思った?」
――第三部。
(その質問、いちばん静かで、いちばん強い)
子どもが少し考えてから、ゆっくり言う。
「……怖かった。でも、なんか、最後は安心して涙が出てきた」
父親が子どもの頭をなでて「うん、そうか。」とだけ言う。
”提出”でも、”答え合わせ”でもない。ただ、残ったものをそのまま置く。それだけで、ロビーの空気が一段だけ柔らかくなる。
(感想って、提出物じゃなくて私物だ。採点されるためじゃなくて、持ち帰るためにある)
三好は息をひとつ、深く落とす。さっきまで刺さっていた声が、同じ場所にあるのに、少しだけ遠い。出口へ向かう人の波に混ざる。自動ドアが開き、外の空気が入ってくる。冷たい。現実の匂いがする。
(余韻は、ロビーで守るものじゃない。外まで連れて帰れるかどうかだ)
三好は歩きながら、もう一度財布の中の半券を指で確かめた。薄い紙が、ちゃんとそこにいる。それで十分だと思えた。
――妄想モードが勝手に立ち上がる。
A:圧迫面接みたいなカップルは、外に出たところで急に笑って「ごめん、変な聞き方した」と言う。感想は保留にして、コンビニで暖かい飲み物を買う。
B:カップルは、ロビーに出ても「どこが面白かったの?」が続く。映画より会話のほうが長く残り、余韻が別の色に染まる。
C:二人とも黙って歩く。”採点”をやめた沈黙だけが残り、後からじわっと効いてくる。
どれもありそうで、どれも違いそうで、だから面白い。
だから、ここで止める。
三好はスマホのメモを開き、三行だけ打った。
・感想=提出物じゃない(私物)
・正解の匂い=余韻を殺す
・「どう思った?」=ほどく言葉
(ラジオ放送、以上。)
――次は、平日夜の電車だ。つり革が、戦場になる。
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