放送#03:スーパーのフードコート—3,333円のレシート—
値札は、毎週こちらの呼吸を浅くする。
三好 恒一、四十六歳。整えるのは部屋じゃない。耳と呼吸だ。
今日は買い物に逃げに来た。逃げる先が「生活」そのものなのは、まあ、皮肉だ。
自動ドアが開くと、総菜の匂いと、カートの車輪音、そして蛍光灯の白さが一気に入ってくる。それから一声。
「え、これ、先週より上がっていない。」
「上がっている上がっている。もう”安い”のがないのよ。」
来た。頭の中でジングル。
――第一部。
(”安い”は値段ことだけじゃなくて、心の余裕も含まれるよな)
野菜売り場の前で、年配の女性二人が値札を指さしている。怒っているというよりも、確認し合っている感じだ。現実が急に怖くなった時の、人間の声になっている。
「もう何を買っていいか分からないのよ」
「そうよね、どこのスーパーに行っても高いし、どこにも逃げ場がなくなっているわ」
(逃げ場はあるよ。
……買い物に逃げている俺が言うのもなんだけど。
だけど、俺はこの声から逃げ出したい。こういう声を聞いていると、こっちまで怖くなってくる。)
三好はカートを押して、その場を離れる。距離を取り、受信量を薄め、境界線を作っていく。
――第一部、フェードアウト。
売り場を回る。今日の”予約”――フードコートで飲むためのボトルコーヒーを一本、先に確保しておく。
(ここで一息付けたら、今日は勝ち逃げ出来る。まずはここから。)
そのあと、乳製品コーナーに回り、牛乳、卵、冷凍うどん、と必要なものを淡々とカゴへ入れていく。
三好にはスーパーでの買い物に決めているルールが二つある。
ひとつは今のボトルコーヒー。もうひとつは、――会計を3,333円のゾロ目で終わらせることだ。意味なんてない。でも、こうでもしないと買い物はやっていられない。
毎回チャレンジして、なかなか成功しない。毎回「今回こそは」と意気込む。
カートに入れながら、金額を頭の中で計算していく。値上がりのせいで、買う品目は減ったのに、合計だけは軽くならない。
一通り回って、目標に近いところまで寄せられたことを確認し、セルフレジに列へ入る。
(このセルフレジ、最初は抵抗があった。でも、買ったものを店員に見られないのは、なんとなく気持ちがいい。カゴの中身を見られると、「この人はこういうものを買う人間なんだ」と品定めされている気がして、買うものを無意識に選んでしまっていた。セルフレジなら、その心配がない。俺の買いたいものを、周りの目を気にせず買える。これはうれしい。)
三好の順番がきて、レジ打ちを始める。ここから先は処理の時間だ。ピッ、ピッ、と進めればいい。
…と思った矢先、袋詰め台のほうから、声が刺さってくる。
「ねぇ、これ、”微糖”って書いてない?」
「え、嘘。無糖のやつ買ったはずだけど」
「ほら、ちゃんと見てよ、微糖って書いてあるわよ。ちゃんと見てねって言ったでしょ、本当にもう。」
「ごめん。だけど隣だったし、パッケージも似ていて、間違っちゃったんだよ。
次は間違えないから、ほんとごめんって」
――第二部
(会計後の答え合わせで、一番逃げ場がないやつ。
でも、これを今ここでやらないでください。やるならせめて家に帰ってから。
あと、そんなに心配だったら自分で取れば良かったのに。失敗したのは、言っているあなたの責任でもありますよ。
……なんて返したら、何倍で返ってくるか分からない。だから黙るしかない)
「で、袋は?」
「……袋?」
「そう、袋。エコバックよ。持ってきたって言っていたよね?」
「……うん、持ってきたはずなんだけど、今確認したら、ない」
「ない、ないって何よ。ほんと、やめてよね。
で、どうするの?これ、手で持って帰るの?」
「……ビニール袋買ってきます。」
「そうよね、じゃあ、またレジに並び直してお願いね。
私はここで待っているから」
「……はい。」
(あの人の顔に、”今。それを言う”っていうのが書いてある。
確かにそうだ。こういうのって、もう少し早く言ってくれればそんなことにならなかったのに――がある。
でも、そんなことは口に出せない。だけど、言われたほうには少し同情してしまう。こういう会計後のトラブルって、罰ゲームに見える。何もしていないのに、こっちまで悪いことをした気分になる。)
言われたほうが、レジの最後尾へ戻っていく。待っているほうは、ずっと機嫌が悪いままだ。三好は視線をセルフレジに戻し、呼吸を整える。
(エコバックは地球を救う顔をして、人間関係を地味に破壊する。「持ってきた?」の一言で、急に空気が監査モードに切り替わって、ぴりつく。
しかも監査対象は家計じゃない、記憶力だ。たった数円なのに、忘れた時のダメージはその何倍も食らう。本当に厄介。袋を買うためだけに列に戻る行為は、”強制リトライ”。やると身体より心が疲れる。)
三好はポケットからイヤホンを取るか一瞬迷うが、止めた。会計を済まして、逃げる方が速そうだ。
最後の品物の読み込みが終わり、会計画面を見る。
――3,334円
この画面見た瞬間、さっきの騒動は頭から吹き飛ぶ。
そして、心の中で叫んでしまう。
(惜しい、あと一円。)
一円で人生は変わらない。だが、こういう場面では一円が重い。
三好は画面のポイント利用ボタンを確認し、端数を入力する。指先が少しだけ緊張する。
(端数、この端数の一円、入れられれば――今日の俺の勝ちが決まる)
「1円」と入れて確定ボタンを押し、会計に進む。
レシートが吐き出され、金額を確認する。
――合計3,333円
(……よし、勝った。)
三好は袋を掲げて、フードコートに向かう。ここは買い物という戦いのあとに一息つく場所だ。今日はいつもよりも気持ちがいい。ゾロ目レシートを出せたおかげだ。
だが、フードコートは混んでいる。子どもの声、呼び出しアナウンス、椅子を引く音、飲食の音。音量は公共財。今日も買い占められている。
三好は空いている席を見つけ座り、袋からボトルコーヒーを取り出して開ける。プシュ、と小さな音。今日、一番安心できる音を聞いた気がした。一口飲む、苦い、だが苦すぎはしない。生活の苦さはこのくらいがいい。
隣の席で、年配の男性が独り言を続けている。
「結局さ、安い高いじゃないくて……”納得”できるかどうかなんだよな」
――第三部
誰に向けた言葉でもないが、三好には響いた。
(確かにそうだ、買うかどうかは、その値段は納得できるかどうかだ。)
値上げは、まだまだ止まりそうにない。明日以降も続いていくだろう。
だけど納得は、自分で作れる。今日の一円みたいに。そうやって自分を納得させて、生活していくしかない。
三好はレシートを折って、財布の中にしまった。
しばらくして、三好はボトルコーヒーを飲み終えた。隣の年配の男性はまだ独り言を続けている。
だが、受信しすぎないために、三好は帰る決断をする。立ち上がり、荷物を持って出口に向かう。
――妄想モードが勝手に立ち上がる。
A:袋詰め台の二人は、家に着く前に「微糖も袋も、もう終わったことだし、まあいいか」で終わって、笑い話になる。
B:袋詰め台の二人の話は、家に帰ってもずっと続く。ずっと怒られ続けて、「こんなに文句言うなら、自分で全部やればいいじゃないか」と逆ギレする。対応して、「分かったわよ、全部やるわ」と引かない。
C:ビニール袋を買ってきたあと、「次はコーヒーもエコバックも忘れないようにするから」と平謝りして、その場を抜けようとする。それを見て「まあ仕方ない」で怒りが収まる。
どれもありそうで、どれも違いそうで、だから面白い。
だから、ここで止める。
三好はスマホのメモを開き、三行だけ打った。
・値上げ=不安の翻訳
・会計後の確認=遅すぎる監査(強制リトライ)
・3,333円=今日一日の勝ち(納得は自分で作れる)
(ラジオ放送、以上。)
――次は、病院の待合室だ。静けさは、番号札の順番で配られる。
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