放送#02:カフェ—音量は公共財—
静けさを買いに来た。
三好 恒一、四十六歳。整えるのは部屋じゃない。耳と呼吸だ。
先会計の店が好きだ。「ホットコーヒー、レギュラー、ブラックで」払って、受け取って、終わり。決済完了=退路確保。これで店をスッと出られる。これだけで心拍数が下がる。便利な時代だ。
……が、混んでいる。空いているのは、奥のテーブル席の「隣」だけ。
テーブル席にはスーツの男が二人座っていて、テーブルの上にはノートPCとコーヒーが置いてある。そこに向かう途中で、その席から声が刺さってくる。
「いや、だからさ、数字が入っていないから説得力が薄いんだって。
そこは『“体感”で説明するな』って何度も言ってるじゃん」
来た。頭の中でジングル。
――第一部。
三好の耳は、その内容よりも、声の温度と圧を先に拾う。文章で飯を食べているくせに、一番邪魔をされるのが“言葉”だというのは、相変わらず皮肉が利いている。
空席まであと数歩のところで、足が止まる。
(まずい、苦手な番組が始まっている。
こんなところに座ったら、コーヒーを飲むどころじゃない。)
三好はもう一度店内を見渡し、空席を探した。
(窓際、埋まっている。壁際、埋まっている。テーブルは……無理。
カウンター、ちょうど人が立ち上がって、席が空きそうだ。
そっちに賭ける。)
三好はターンして、カウンター席に向かう。席が空いたタイミングを見計らって、座る。
(助かった。後ろは通路だが、さっきの席よりいいだろう。)
座ってもまだ説教の声は届くが、さっきよりも通行人の足音が壁になって意味が遠のき、単なるBGMに変わる。数字は苦手だ。なぜなら、数字は“正しさ”に変換されやすいから。その正しさは“圧”を持ってくる。
三好は首を振り、その考えを頭から振り払った。
――第一部、フェードアウト。
コーヒーに口を付け、一息つく。
(こうやって、コーヒーを一人で飲むことが、俺にとっては贅沢な時間だ)
しばらくたった後、レジの方から刺さる声が聞こえてきた。
「すみませーん。これ、アイス頼んだんだけど」
――第二部。
店員が丁寧な顔を保ちながら駆け寄る。
「申し訳ございません。すぐにお作り直しいたします」
「いや、普通、間違えないでしょ? ホットとアイスってさ」
(“普通”の定義、ここで勝手に作らないでください。
あと、こんな数百円程度のもので店員さん一人に、そんな言い方をしなくても。)
“普通”は便利な言葉だ。言った瞬間に相手を裁ける。しかも言った本人だけの正しさから、全体の正しさに変わる。便利すぎてつい使ってしまうが、公共の場で使うとだいたい迷惑な凶器に変わる。
クレーマーは続ける。
「ていうかさ、こういうの一回やられると、こっちもさ」
「……はい。不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
店員の声は低く、柔らかい。謝っているのに、着地するための土台を作っている感じだ。謝罪は“降伏”じゃなくて、“場を戻す作業”だと知っている声だ。
周囲の客の反応は小さい。三好はこういう時にいつも思う。店内全員で「こんなクレームは止めて、静かにしてほしい」と言えば早い。さすがに店内全員が相手なら、クレーマーも文句を言いづらいだろう。でも、誰も言わない。というより言えない。言うと次は自分が番組に強制出演することになるからだ。公共財を守るために、みんな演者になりたくない。気持ちは分かる。とても分かる。三好本人もそこまではしない、というより出来ない。だが、耳に言葉が刺さる。
三好はポケットからイヤホンケースを取り出し、耳につける。これは三好にとって“境界線のスイッチ”。 それに加えて、カフェで過ごすために持ってきた文庫本を開く。こういう時はクラシックなどの歌詞がないものを選曲する。言葉があると、それを受信してしまい、本の内容が入ってこないからだ。文字に焦点を合わせると、クレームの音は少し落ち着いてくる。
しばらくしてからレジの方を覗くと、店員が新しい飲み物と、店の商品のクッキーをお詫びのサービスとしてクレーマーに渡しているのが見えた。
「……まあ、いいけどさ。ほんと今回だけにしてね、こういうの」
そう言いながら、さっきまでのこわばった顔が緩んでいるように見える。
(出た、ワイロ。クッキー一枚で事態が収まる。これは高くついたのか、安くついたのか。でも終わってくれて良かった。ようやくクレームタイム終了。
“普通”を返さず、正論で殴らず、物でほどく。あの店員さん、営業向きだな。)
三好はイヤホンだけをしまい、そのまま読書を続ける。遮断しすぎると、三好自身が凝り固まる。凝り固まった人間は、結局うるさくなる。それが分かっているから、必要な時だけイヤホンをつける。自分が加害者側に回らないようにするための、最低限度の作法だ。
レジカウンターに、外国人が五名、何語か分からない言葉を話しながらワイワイ楽しそうにメニューを選んでいる。三好の耳には、分からない言葉はBGMのようにも聞こえ、逆に受信してしまう。
――第三部。
外国人が注文をしようとしているが、店員さんは何を頼んでいるのか分からないようで困っている。
(たしかに困る。英語でも困りそうなのに、何語かも分からない言葉で注文されても困るだろうな。さっきのクレーマーといい、この店員さんも今日は厄日だな。)
店員が困っている様子を察した外国人の一人がスマホを取り出して、話しかける。
一拍、二拍、三拍。いくら待っても、変換された声が聞こえない。
一人がスマホを確認すると、周りで話している声まで拾っていて、“話し中モード”が続いている。その一人が周りに黙るように、静止のポーズをする。それを見た周りも一斉に鎮まる。
(店のBGM自体は流れているのに、店が急に無音になった感じだ。少し不思議だ。) 改めて、スマホに注文を入れ直す。
一拍、二拍。
『コーヒーのホット、ミッツと、カフェラテのアイス、フタツ。オネガイシマス。』
店員が一瞬止まって、すぐに頷いた。眉間の力がふっと抜け、息を吐いたのが伝わった。店員がメニュー表を指さしながら、オーダーを再確認している。店員の声も角が取れている。注文が済み、外国人五人はドリンクを持って席へ移動する。向かい合って座り、母国語で話し始める。早口で、弾んで、払い声が混じる。意味は分からないが、楽しんでいる空気は伝わる。
三好はコーヒーを飲み切った。コーヒーを飲み切ると店を出るのが三好のルールだ。混んでいる日は特に長居をしない。長居した瞬間に、公共財の取り分が増えて、買い占め側に回る気分になる。そうならないために文庫本を閉じ、席を立つ準備を始める。三好は席を立ち、紙カップを捨て、外に出る。外気に触れて、耳の中の残業が消えていく。
――妄想モードが勝手に立ち上がる。
A:外国人たちは「翻訳アプリの“間”、長すぎて待っていられない。途中でしゃべりそうになる」と笑いながら話している。
B:外国人たちは「店員さん、きょとんとしていた。困った。翻訳アプリを持っていて良かった」と、便利さについて話している。
C:ただの雑談。今日のこれからの予定などについて話している。こっちが勝手に“物語”として受信しただけ。ただの職業病。
どれもありそうで、どれも違いそうで、だから面白い。
だから、ここで止める。
三好はスマホのメモを開き、三行だけ打った。
・クッキー一枚=クレーマー対策
・分からない言語はBGM
・翻訳アプリを使うときは静かに
(ラジオ放送、以上。)
――次は、スーパーのフードコートだ。静けさは、割引されない。
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