満員電車の心のツッコミ専属ラジオ
Aki Dortu
満員電車の心のツッコミ専属ラジオ
満員電車で座れた日は、それだけで一日ぶんの運を前借りした気がする。
三好 恒一、四十六歳。文章で飯を食っているくせに、声のほうが先に入ってきてしまう体質だ。
腰を下ろした瞬間、ポケットの中でイヤホンケースが小さく当たった。白い小箱。
三好にとっては「境界線のスイッチ」みたいなものだった。押せば外界が遠のく。押さなければ——勝手に“番組”が始まる。
窓に映る自分の顔は、早起きの割に冴えていない。
まあいい。今日は座れた。それだけで勝ち。そういう日も必要だ。
そう思った矢先、右斜め前から声が刺さってくる。
「だからさぁ、前から言ってるじゃん」
あ、来た。
三好の頭の中で、勝手にジングルが鳴る。
——満員電車の心のツッコミ専属ラジオ、本日の第一部。
「は? それ今言う? てか、そっちだってさぁ」
痴話げんか。しかも声が、よく通る。
ここ、あなたたちの家のリビングじゃない——と言いたいが、言えるわけもない。公共の場は不思議だ。個人のドラマが急に“共有物”になる。
(公開裁判、開廷中。傍聴席、満席。)
心の中でだけツッコミを入れる。ツッコミを入れているうちは、まだ自分の主導権がある。
相手を笑っているというより、状況の不条理に酸素を入れている感じだ。
隣のサラリーマンは新聞を広げて無音の顔。向かいの学生はイヤホンで世界を遮断。
みんな、各自の方法で“受信しない”努力をしている。三好だけが受信してしまう側にいる。
言い争いは駅をまたいで同じところをぐるぐる回り、最後は「もういい」に着地する。
「もういい」と言った側が、いちばん言いたいことを残したまま。
次の駅で二人は降りた。ドアが閉まる寸前まで「だからさぁ」と「はぁ?」。
閉まった瞬間、車内に静けさが戻る。
(終演。助かった。)
心の中で拍手する。こういうのは、幕が下りた瞬間がいちばん気持ちいい。
……が、生活は容赦なく次の番組を差し込んでくる。
「社会人としてさぁ」
左側から、低い声。
三好の体が反射で固くなる。
このフレーズは人を小さくする。言う側は気持ちいいことが多い。聞く側はだいたい息が浅くなる。
「昨日の資料さ、ああいうのはさ、もっと前日に出しとくもんなんだよ」
スーツの男が、向かいの若い男に説教している。若いほうは首の角度だけで「すみません」をしていた。
怒鳴っているわけじゃない。むしろ淡々としている。淡々としているからこそ、圧が逃げ場を作らない。
(社会人として、満員電車で説教しない、って項目はないんですか。)
ツッコミが出た瞬間、胸の奥がちくりとする。
若いころ、自分もこういう声を浴びた。浴びて、飲み込んで、飲み込んだことを褒められた。
「耐えるのが正しい」みたいな空気の中で、三好は長く暮らしてきた。
だから今でも、「社会人として」と聞くと背筋が伸びる。体が先に従おうとする。
従ってしまえば楽だった頃の名残だ。
「俺なんか新人の頃、毎日終電まで残ってさ」
(その苦労話、会社の経費じゃなくてあなたの人生の領収書なので、他人に譲渡しないでください。)
ツッコミが鋭くなる。自分でもわかる。
この“トーン”が苦手だ。上から、押しつけ、正しさの押し売り。
——ここで一度、イヤホンに逃げる。
三好はイヤホンを耳に入れて、音楽を流した。
……流した、はずなのに。
「……社会人として……」
聞こえる。
音楽の向こう側から、言葉だけがしぶとく貫通してくる。音量を上げても聞こえる。上げれば上げるほど、今度は自分の耳が疲れる。
(ガードしてるのに貫通。今日は電波が強い日だな。)
三好はイヤホンを外した。
違う。今日はイヤホンで逃げない。今日は、もっと手前の境界線を使う。
ただ問題がひとつある。
——座れている。
満員電車で「座れている」は、通貨みたいなものだ。
しかも、降りる駅まであと三駅。たった三駅。されど三駅。
そこでふと、どうでもいいのに捨てられない事実が顔を出す。
(……三駅前。三。俺、三好。名字に三が入ってる。
こういうとき、“三”ってラッキーNoってことにしていい気がする。)
意味があるかは知らない。
でも、意味がないとやってられない日もある。
三好は立ち上がった。
降りる駅ではない。けれど、ここに居続ける理由もない。
ドアが開いた瞬間に冷たい空気が流れ込み、三好は一歩だけホームに出て、隣の車両へ移った。
席を手放す瞬間、胸の奥が「もったいない」と小さく叫ぶ。
座席って、こんなに惜しいものだったっけ、と自分にツッコみたくなる。
(“席を立つ”って、本来は“譲る”ときにやるやつだろ。
自分都合で立つの、ちょっと贅沢じゃない?)
——そう思ったところで、ふと一つの記憶がよぎる。
前に一度だけ、席を譲れた回があった。
足の悪そうなおばあさんが乗ってきて、三好は反射で立って席を指さした。
「ありがとうねぇ」と言われて、変なところが温かくなった。
たったそれだけなのに、その日は帰り道まで気分が良かった。
席を立つって、損じゃない。
少なくとも、立った自分のほうが好きになれる時がある。
(今日は譲る相手が見えないだけで、譲ってるのは同じだ。——自分の心に。)
隣の車両は少し空いていた。
三好は窓際に立ち、呼吸を整える。
(第二部、強制終了。……三、信じてみよう。)
スマホのメモを開いて、三行だけ打つ。
・社会人として=圧
・領収書の譲渡禁止
・イヤホン貫通
残すと落ち着く。
使うかどうかは別として、言葉にして箱に入れると、心の中に散らばらない。
そうして、ようやく自分の世界に戻れた——と思った矢先、また声が入ってくる。
「ねえ、昨日の合コン、やばかったんだけど」
前の座席に座る女の子二人。声が明るい。
さっきの説教と同じ“でかさ”でも、温度が違う。これは不快じゃない。むしろ、面白い予感がする。
(心のツッコミ専属ラジオ、第三部。……三、仕事してる。)
「一番タイプじゃないと思ってた人が、いちばん落ち着くの。意味わかんなくない?」
わかる。
というか、わかってしまう自分がいるのが悔しい。
“タイプ”って、結局は入口だ。
中身は、距離、声、間、沈黙の居心地。
そういうものが合う人は、最初の見た目の計算を軽々と飛び越えてくる。
「え、で? LINEしたの?」
友だちの声が前のめりになる。
三好の意識も勝手に前のめりになる。立っているのに、心だけが席に座ってしまう。
「それがさ——」
来た。オチ前の“溜め”だ。
そのタイミングでアナウンスが流れた。
「次は——」
三好の降りる駅。
最悪だ。なんで今。今じゃない。
駅員に文句を言いたい。いや、駅員は悪くない。世界が悪い。いや、世界も悪くない。ただ、タイミングが悪い。
チャイムが鳴る。
ここから先は二択だ。
乗り過ごすか。降りるか。
昔の自分なら、乗り過ごしていたかもしれない。
オチが気になる。結末がほしい。物語は最後まで聞きたい。
他人の会話なのに、自分の中で“完結”させたくなる。
でも今の三好には、もうひとつのルールがある。
面白い会話は、降りたあと妄想で補完する。
他人の人生を勝手に受信しすぎないための境界線。
自分の生活を守るための、弱さじゃない技術。
三好は、ドアが開く瞬間に決めた。
降りる。
オチより生活。
物語より自分。
ホームに出た。
背中で、女の子の声が一瞬だけ届いた。
「……無理しなくていいよって言われたの」
その一言だけが拾えた。
残りはドアが閉まり、電車が連れていってしまう。
三好は立ち止まった。
胸の奥に、熱いものがゆっくり落ちてくる。
“無理しなくていいよ”。
それは、人に言われたい言葉で。
でも本当は、自分で自分に言うべき言葉で。
さっきまでの「社会人として」と、真逆の方向にある。
押す言葉と、ほどく言葉。締める声と、ほどける声。
(……今の、刺さるな。)
オチは聞けない。
なら——妄想で補完する。
改札へ向かいながら、三好は頭の中で続きを書き始めた。
こういう時、結末はひとつじゃなくていい。むしろ、複数あるほうが救われる。
パターンA。
その男は言う。「無理しなくていいよ。今のままで、十分いい」。
女の子は泣く。泣いて、笑って、「じゃあ、もうちょっとだけ、頑張らないでみる」と言う。
パターンB。
優しさが怖くて、女の子は言う。「そういうこと言う人、信用できない」。
男は困って、でもちゃんと困ってくれる。その“困り方”が、信用になる。
パターンC。
実は彼は恋愛対象じゃない。店員か、先輩か、ただの友だち。
でも“無理しなくていいよ”という言葉だけが、女の子の生活に残る。恋より先に、生活が救われる。
どれもありそうで、どれも違いそうで。
だから面白い。
だから、ここで止めていい。
三好はスマホのメモを開いて、一行だけ打った。
「無理しなくていいよ=ほどく言葉/拾ったら自分に渡す」
書いた瞬間、呼吸が少し深くなる。
他人の会話はうるさい。疲れる。苦手なトーンは本当に苦手だ。
でも、たまにこうして“自分に必要な言葉”が混ざる。
駅前の信号が赤になり、三好は立ち止まった。
ポケットの中のイヤホンケースに指が触れる。今日は音楽を流すべきか。
いや、今はこの言葉をもう少し胸の中で反響させておきたい。
信号が青になる。
歩き出す前に、三好は心の中で番組を締めた。
(満員電車の心のツッコミ専属ラジオ、本日の放送終了。……三部で終わるの、嫌いじゃない。
続きは各自の妄想で。)
そして歩き出す。
生活は続く。物語も続く。
違いがあるとすれば——三好がどの言葉を受信して、どこで切るかを、少しずつ選べるようになってきたことだけだ。
満員電車の心のツッコミ専属ラジオ Aki Dortu @aki_1020_fjm
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