5 優しい隣人

『優しい隣人』


 隣の部屋から、また子供の泣き声が聞こえてくる。


 もう一時間も泣きっ放しだ。壁の薄いこのアパートでは、その悲痛な叫びが私の部屋まで筒抜けだった。


「……可哀想に。また虐待されているのね」


 私は編みかけのマフラーを置いて、眉をひそめた。


 隣に住んでいるのは、若い夫婦と、五歳になる男の子だ。


 この夫婦がどうしようもない。夜遅くまで笑い声が聞こえるし、挨拶もしない。そして何より、あの痩せっぽちの坊や、ケント君をいつも泣かせている。


 育児放棄、あるいはもっと酷いことをしているに違いない。子供が泣いているのに、見て見ぬ振りなんてできない。


 私は立ち上がり、戸棚から「あるもの」を取り出した。


 先日、デパ地下で並んで買った、有名店の高級クッキーだ。数種類のナッツがたっぷり練り込まれていて、きっと滋養にもいい。


 これを食べさせてあげれば、少しは元気が出るだろう。


 私はベランダに出た。


 隣のベランダとの仕切り板の隙間から、うずくまって泣いているケント君の姿が見えた。両親は外出しているのか、窓は閉め切られている。


「ケント君、ケント君」


 小声で呼ぶと、彼は涙で濡れた顔を上げた。


「お腹、空いてるんでしょう? これ、おばちゃんからのプレゼント」


 私は隙間から、個包装されたクッキーを二つ、差し出した。


 ケント君はおどおどしていたが、空腹には勝てなかったのだろう。小さな手でそれを掴み取った。


「内緒だよ。パパとママに見つかると、また怒られちゃうからね」


 私がウインクすると、彼は小さく頷き、その場で包装を破って貪るように食べ始めた。

 ボロボロと食べカスをこぼしながら、必死に頬張っている。


 ゴホッ、ゴホッ!


 急にケント君が激しく咳き込んだ。喉を押さえて、苦しそうに肩を上下させている。


「あらあら、急いで食べるから詰まらせちゃったのね。ゆっくりでいいのよ」


 私は微笑ましく見守った。


 しばらくすると咳は収まったが、彼は顔を赤くして、少し疲れたようにベランダに座り込んでしまった。


 お腹がいっぱいになって、眠くなったのかもしれない。


 ああ、なんて愛おしい。


 私のささやかな善意が、小さな命を救っている。その事実に、私は胸が温かくなるのを感じた。


 異変が起きたのは、私が部屋に戻ってすぐのことだった。


 編み物を再開して、まだ二段も進んでいない。時間にして、三十分も経っていなかったと思う。


 激しいサイレンの音が近づいてきて、アパートの前に止まったのだ。


 何事かと窓から覗くと、救急隊員が隣の部屋へ駆け込んでいくところだった。


 やがて、担架が運び出されてくる。


 小さな体。だらりと力なく垂れ下がった腕。ケント君だ。


 その後ろから、鬼のような形相の母親と、青ざめた父親が警察官に囲まれて出てきた。帰宅したばかりなのだろう、母親はエコバッグを握りしめたままだ。


「人殺し……!」


 野次馬の中から誰かが呟いた。


 私はカーテンの陰で、震える手で胸を押さえた。


 やっぱり。いつかこうなると思っていたのだ。


 あの両親、帰ってきた瞬間にあの子に手を上げたに違いない。ほんの数十分前まで、あんなに元気にクッキーを食べていた子が、こんなことになるなんて。


 翌朝、ゴミ出しに行くと、近所の奥さんたちがヒソヒソと話をしていた。


 ケント君は、搬送先の病院で亡くなったらしい。


「聞いた? 死因」

「ええ、アナフィラキシーショックだって」

「アレルギーの発作ね。なんでも、重度の『クルミ』アレルギーだったとか」

「信じられない。知ってて食べさせたのね、親が」

「警察も、日常的な虐待の末の犯行として捜査してるみたいよ」


 私はその会話を聞いて、目眩がした。


 クルミ。


 なんてことだ。あの子は、そんな爆弾みたいな体質を抱えて生きていたのか。


 そしてあの両親は、それを知りながら、あの子にクルミを食べさせたのだ。


 発作を起こして苦しむ我が子を、見殺しにしたのだ。


「……なんて残酷な」


 私は怒りで体が震えた。


 昨日、私があげたあの高級クッキーの味を、あの子はどんなに喜んでいただろう。


 最後に食べたのが、あんな鬼のような親が与えた毒(クルミ)ではなく、私の愛情が詰まったお菓子(ナッツ入りクッキー)だったらよかったのに。


 いや、もしかしたらあの子は、私のクッキーの味を天国へ持っていってくれたかもしれない。


 それだけが、唯一の救いだ。


 私は空を見上げた。


 今日の空は、突き抜けるように青い。


 ケント君。ごめんね。おばちゃんにもっと力があれば、あの家から助け出してあげられたのに。


 「次はもっと…早く助けてあげなくちゃ」


 私は涙を拭い、両親が逮捕されたというニュースを待つために、部屋へと戻った。

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ショートケーキの苺は腐っている しがない役所魂 @abc035abc

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