3 母のかご

『母のかご』


「翔太、今日はハンバーグよ。もちろん、あなたの好きなデミグラスソース」


 母さんの明るい声がリビングに響く。


 香ばしい肉の焼ける匂いと、ソースの甘い香り。今の僕には匂いを嗅ぐことはできても、その味を確かめることはもうできない。


 僕はソファに座り、そんな母さんをじっと見ていた。


 テーブルには二人分の食事。向かいの席には、誰も座っていない。それなのに母さんは、まるでそこに僕が座ってナイフを握っているかのように、空っぽの空間に話しかけ続けている。


(……母さん、僕はこっちだよ)


 僕は心の中で呟く。声は出さない。出しても届かないからだ。


 僕は三ヶ月前のバイク事故で死んだ。


 それ以来、母さんは壊れてしまった。僕の死を受け入れられず、こうして毎日「僕との生活」を演じている。


 近所の人は「可哀想に、気が触れたんだ」と噂しているらしい。


 だから僕がそばにいてあげなきゃいけないんだ。僕までいなくなったら、母さんは本当に孤独になってしまう。


 ふと、窓の外が白く光ったような気がした。


 最近、時々こうなる。体がふわっと重力から解き放たれて、陽だまりのような温かい場所に吸い込まれそうになる感覚。


 そっちに行けば楽になれると本能が言っている。痛みも、未練もない場所。成仏、というやつかもしれない。


(そろそろ、潮時なのかな……)


 僕がふらりと立ち上がり、光に惹かれて一歩を踏み出した、その時だった。


「いやあああああっ!!」


 突然、母さんが絹を裂くような悲鳴を上げた。


 ガチャン! と激しい音がして、手に持っていた皿が床で粉々になる。デミグラスソースが血痕のように飛び散った。


 母さんは髪を振り乱してその場に崩れ落ちる。


「行かないで! お願い、私を置いていかないで! 翔太、翔太ぁっ!」


 母さんは床を這いずり回り、虚空を必死に掴もうとしている。目を見開き、形相が変わるほどに怯えている。まるで、僕が消えようとしているのがはっきりと見えているみたいに。


 ……そうか、母さんには感じるんだ。母親の勘ってやつかもしれない。


(……わかった。わかったよ母さん)


 僕は光に背を向け、泣き叫ぶ母さんの元へ駆け寄った。


 その震える背中に、そっと触れる。手はすり抜けてしまうけれど、精一杯の気持ちを込めて。


 僕はどこにも行かない。天国なんて行かなくていい。ずっと母さんを守るよ。


 僕がそう決意してしゃがみ込むと、母さんの震えがピタリと止まった。


 乱れた髪の隙間から、安堵したような吐息が漏れる。


「……翔太ぁ」


 母さんは涙を拭うと、何事もなかったかのように立ち上がった。


 そして、部屋の四隅の壁に、何かを貼り付け始めた。


 黄色い和紙に、赤い筆文字で何かがびっしりと書かれたお札だ。以前、怪しげな祈祷師のところでもらってきたやつだ。朱色がまるで、のたうつミミズのように見えた。


「最近、物騒だからね。悪いものが外に出ていかないように、しっかり鍵をかけなきゃ」


 母さんはブツブツと呟きながら、窓のサッシにも、玄関のドアの隙間にも、そのお札を貼っていく。


 ペタリ、ペタリ。

 ペタリ、ペタリ。


 部屋中が黄色い紙で埋め尽くされていく。外の景色が、黄色く塗り潰されていく。


(母さん……そんなに怖がらなくていいのに)


 僕は苦笑する。


 僕が死んでから、母さんはすっかり臆病になってしまった。泥棒が入るのが怖いのだろうか。それとも、僕との思い出が外に漏れるのが嫌なのだろうか。


 なんにせよ、これじゃあ僕も外には出られないな。


「ふふっ」


 全ての隙間を塞ぎ終えた母さんが、満足そうに笑った。


 そして、僕の方をゆっくりと振り返る――いや、僕の姿を一瞬捉えてから、目線を少し右側の、壁のお札に移し、優しく言った。


「これでずっと一緒よ、翔太」


 母さんの笑顔は、少女のように無邪気で、幸せそうだった。


 やっぱり、僕がいないとダメなんだ。


 こんなに頼りない母さんを一人残して、成仏なんてできるわけがない。


 僕は母さんの足元に座り直す。


 視界の端で、あの温かい光が消えていくのが見えた。


 大丈夫だよ、母さん。僕はいつだって、母さんの側にいるから。


 いつまでも、いつまでもね。


「母さん、今度こそは翔太を絶対になくさないからね」




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