2 後編 最高の彼女
『最高の彼女』
十二月、寒空の下の聖夜。私は冷え切った部屋で、鏡に映る自分の体をうっとりと眺めていた。
二の腕に咲いた青紫色の花。脇腹に刻まれた黄色い線。それはすべて、彼が私に触れた証だ。彼が私という存在を確かめようとした、情熱の痕跡だ。
財布の中に入れておいた更新料の三万円が、ない。
きっと彼が持って行ったのだろう。私が持っていると、どうせくだらないことに使ってしまう。だから彼が私のために使ってくれたのだ。
彼が私の財布を開け、私のものを自分のものとして扱う。その事実に、私はたまらない所有感を感じて震えた。
ガチャリ、とドアが開く音がした。
「ただいま、ミナミ」
愛しい声が聞こえた瞬間、私の体は喜びでビクリと跳ね上がった。
心臓が早鐘を打つ。彼が帰ってきた。外の世界の誘惑を振り切って、私の元へ。
彼からは微かに、安っぽい女の香水とタバコの匂いがした。鼻孔をくすぐるその匂いに、私は優越感を抱く。彼は外で他の女と遊んでも、最後には必ずここへ帰ってくる。他の女はただの遊び相手で、私だけが、彼の激情も、すべてを受け止められる「帰る場所」なのだ。
「ほら、サンタさんのプレゼントだよ」
彼が差し出したのは、リップクリームとチョコレートだった。
ああ、なんてこと。
彼はあの三万円を、こんな可愛らしいプレゼントに変えてきてくれたのだ。戦利品だ。彼が時間をかけて、私のために勝ち取ってきてくれた勲章だ。
嬉しくて涙が出そうになる。それなのに――私の悪い癖が出てしまった。現実的な不安が、つい口をついて出てしまったのだ。
「あ、あの……お金……家賃の更新料、だったんだけど……」
言ってしまってから、ハッとした。
なんて愚かなんだろう、私は。彼がこんなに素敵な笑顔で帰ってきてくれたのに。神聖なクリスマスの夜に、汚いお金の話なんかして。
案の定、彼の纏う空気が鋭くなった。
彼はため息をつき、私の両肩を掴む。大きくて、温かくて、強い手。
「ミナミ。お金なんてまた稼げばいいさ。それより、僕が君のために選んだこのプレゼントの感想が先じゃないかな?」
「ご、ごめんなさい……でもね、あれがないと……」
「しっ、静かに」
彼は背後から、私を強く抱きしめた。
いや、ただの抱擁じゃない。彼の太い腕が、私の首に深く食い込む。
万力のような力が、気道を容赦なく締め上げていく。
「ゴフッ、カハッ」
喉がひきつり、酸素が遮断される。視界がチカチカと明滅する。苦しい。
――ああ、叱ってくれているんだ。
せっかくの幸せを台無しにした私を、彼はその腕で黙らせてくれている。「余計なことを喋るな」「俺だけを感じろ」と。
言葉よりも雄弁な力が、私の愚かな口を塞ぎ、意識を彼一色に染め上げていく。
首からミシミシと音を立てる。
(彼が私を正してくれている。私の命の手綱を、彼が握りしめてくれている!)
彼が力を緩めると、私は床に崩れ落ちた。涙が止まらなかった。反省と、そして感謝の涙だ。彼がいなければ、私はきっとつまらない現実やお金の心配に囚われたままの、哀れな女だっただろう。
「わかってくれて嬉しいよ」
彼がしゃがみ込み、私の涙を親指で拭う。
首に残る熱い痺れ。これが「愛のしつけ」でなくて何だというのだろう。
「そういえば、今日はクリスマスだね」
彼が言う。私は腫らした目で彼を見上げた。
視界が滲む中、彼だけが鮮明に見える。こんなに出来の悪い私を見捨てずに、何度も何度も教えてくれる優しい人。
そんな彼に、私は報いなければならない。
「僕からは、もうプレゼントを渡したよね。それに君に一生の愛を誓ってあげるつもりだよ。……君は、僕に何をくれる?」
彼は、一生の愛を誓うと言った。その言葉を聞いた瞬間、私の中で覚悟が決まった。こんなにも私のことを想ってくれる彼に、中途半端なものは渡せない。
私が彼のためにできる唯一のこと。それは、永遠に、私を彼のものに、そして彼を私のものとして完成させること。私も永遠の愛を誓うこと。
私はゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
「……うん。私も最高のプレゼントを用意しているの」
「楽しみだね。君の『最高』がどんなものか」
彼は満足そうに笑って立ち上がった。
本当に楽しみにしていてね。
ーーーー
「……なんだその服。ふざけてるの?」
彼は不機嫌そうに舌打ちをした。
私が用意したのは、特注のサンタクロースの衣装だ。ただし、色は真っ白。帽子も、コートも、ズボンも、雪のように白い。
「あなたのも用意してるの、お願い一回で良いから着て!」
私は彼の手を取り、もう一着の白い衣装を無理やり着せた。彼は「はぁ」とため息を付き、タバコを探しながら、少し怖い目で私を見つめてくる。
「ねえ、知ってる? サンタさんの服がどうして赤いか」
私は机の下に隠していた包丁を取り出し、握りしめた。すると彼が私を見つめていた。その瞳に、私が映っている。私だけが映っている。
「愛する人の命で、染め上げるからだよ」
私は彼にもたれ掛かるように、彼の胸に飛び込んだ。強く、深く。切っ先を彼の心臓へと沈めていく。
ドクン、と熱いものが、彼の大切なモノが柄を通して伝わってきた。
白い生地が、じわりと赤く滲んでいく。美しい赤色。彼の中にある温かい命の色だ。
「あ、が……」
彼は驚いた顔をして、私に倒れ込んできた。重たい。でも、幸せ。
見る見るうちに、彼の白いサンタ服は鮮やかな赤色に変わった。これで彼は立派な私だけのサンタクロース。でも、私だけ白いままじゃちっともお揃いじゃない。
私は震える手で包丁を抜き、そのまま自分の首筋に刃を当てた。
ためらいはなかった。彼と一緒に行けるのだから。
スウッ、と熱い線が走り、視界が赤く染まる。
私の白い服も、噴き出した愛で赤く、赤く染まっていく。意識が遠のく中で、私は彼を強く抱きしめ返した。
見て。全身お揃いの赤い服。
誰にも邪魔されない、誰にも奪われない。
やっぱり私たちは、世界でお似合いの、最高のカップルだね。
いつまでも…ずっ…と一緒だ…よ。
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