4:『夜勤』


 匿名の送り主から届いた資料を整理しながら、私は次の取材先を探していた。


 医科大学の関係者には接触できた。だが、彼らが知っているのは「派遣医師に何が起きたか」であって、「病院の内部で何があったか」ではない。

 病院の中で働いていた人間に話を聞く必要がある。

 看護師、医師、事務員、警備員——閉院当時、綾瀬総合病院あやせそうごうびょういんに勤務していた人々。七年前のことだから、既に別の職場に移っているはずだ。

 私はSNSや求人サイト、医療従事者向けの掲示板などを手がかりに、当時の職員を探し始めた。


 三日かけて、一人の看護師に辿り着いた。


 ██ ██。閉院当時、綾瀬総合病院の3階病棟に勤務していた看護師。現在は朔望さくぼう市内の別の病院で働いている。

 私は彼女の勤務先に電話をかけ、取材を申し込んだ。


「綾瀬総合病院のことを調べているライターです。当時のことをお聞きしたいのですが」


 電話口で、彼女は長い沈黙の後、こう言った。


「……いいですよ。ただし、私が話せることは限られています」


         ◆


 待ち合わせ場所は、朔望市内のファミリーレストランだった。

 平日の午後三時。昼食と夕食の間の時間帯で、店内には客がほとんどいない。

 約束の時間に、一人の女性が店に入ってきた。

 五十代半ばくらい。疲れた顔をしているが、目には芯の強さがある。白衣ではなく、地味な私服を着ていた。


瀬野せのさん、ですか?」

「はい。お時間をいただきありがとうございます」


 元看護師——██さんは、私の向かいの席に座った。


「先に言っておきますけど、あの病院のことは、あまり話したくないんです」

「それでも、会っていただけたのは——」

「あなたのお祖父様が、あそこに入院されてたって聞いたから」


 私は息を呑んだ。

 電話では、祖父のことは話していない。


「なぜ、それを?」

瀬野せの、という名字。珍しいでしょう。それに、あなたの年齢。もしかしたらと思って、調べさせてもらいました」


 ██さんは、私の目を見た。


「三〇四号室。覚えてますよ。穏やかなおじいさんでした。私、夜勤の時に何度か話し相手になったの」


 当直日誌に書かれていた記述が蘇る。


『03:45 304号室(瀬野██様)、眠れないとのこと。しばらく話し相手になる』


 あれは、この人だったのか。


「おじいちゃんは……どんな様子でしたか」

「最初は普通でしたよ。リハビリも順調で、もうすぐ退院できるって喜んでた」

「最初は?」


 ██さんの表情が、わずかに曇った。


「……四月の半ばくらいからかな。様子が変わったの」

「どんなふうに?」

「眠れないって言うようになった。悪い夢を見るって。それから、廊下を誰かが歩いてるって」

「誰かが?」

「うん。夜中に、廊下を歩く音が聞こえるって。でも、私が巡回しても誰もいない」


 ██さんはコーヒーカップを両手で包み込んだ。


「最初は、夜中だから寝ぼけてるのかなって思った。でも、おじいさんだけじゃなかったの」

「他の患者さんも?」

「ええ。3階西病棟の患者さんが、何人か同じことを言い始めた。夜中に誰かが歩いてる。廊下の奥に誰かが立ってるって」


 3階西病棟。祖父がいた場所だ。


「それは、幻覚か何かでは——」

「私も最初はそう思った」


 ██さんは首を横に振った。


「でもね、私も見たのよ」


 店内の空気が、一瞬冷えたような気がした。


「何を、見たんですか」

「夜勤の時。巡回じゅんかいで廊下を歩いてたら、東病棟のほうから誰か来るのが見えた。患者さんが徘徊してるのかと思って、声をかけようとした」


 ██さんの声が、低くなった。


「でも、近づいたら誰もいなかった。確かに人の形が見えたのに。振り返ったら、今度は廊下の反対側にいた」

「反対側?」

「そう。一瞬で移動してた。そんなの、ありえないでしょう」


 ██さんはカップを置いた。手が、かすかにふるえていた。


「それから私は、夜勤の時に東病棟に近づかないようにした。他の看護師も、みんなそうしてた。暗黙の了解みたいなもの」

「東病棟に、何かあったんですか」


 その質問をした瞬間、██さんの顔色が変わった。

 目の奥に、恐怖の色が浮かぶ。


「……あそこには、近づかないほうがいい」

「なぜですか」

「あそこには、一人だけ患者がいたの」

「一人だけ?」

「個室に。ずっと意識がなくて、ベッドに寝たきりで。でも——」


 ██さんは言葉を切った。

 私は待った。


「——でも、夜になると、その患者が廊下を歩いてるのを見た人がいる」

「意識がないのに?」

「そう。ありえないでしょう。でも、見た人がいるの。私だけじゃない。警備員さんも、当直の先生も」


 ██さんは私の目を見た。


「あなた、その患者の名前を知ってる?」


 私は答えなかった。

 だが、私の沈黙が答えになったのだろう。██さんは小さく息を吐いた。


「……そう。もう知ってるのね」

「教えてください。その患者に、何があったんですか」

「知らないほうがいい」

「でも——」

「聞いて」


 ██さんは身を乗り出した。


「私はあの病院で五年働いた。いろんな患者さんを見てきた。亡くなる人もたくさん見た。でも、あの患者だけは違った」

「何が違ったんですか」

「分からない。ただ、あの人の部屋に入ると、何かがおかしくなるの。頭が痛くなる。夜、眠れなくなる。変な夢を見る」


 ██さんの声が、震え始めた。


「私の同僚は、あの患者の担当になってから、おかしくなった。最初は軽い不眠。それが悪化して、幻覚を見るようになって。最後には——」

「最後には?」

「辞めたわ。病院を。それから連絡が取れなくなった」


 ――行方不明。

 派遣医師たちと、同じだ。


「その患者の名前は——」

「言わないで!」


 ██さんは、ほとんど叫ぶように言った。


「その名前を口にしないで! 聞きたくない!」


 私は黙った。

 ██さんは深呼吸をして、自分を落ち着かせようとしていた。


「……ごめんなさい。取り乱して」

「いえ」

「もう、これ以上は話せない。話したくない」


 彼女は立ち上がった。


「あなたも、もう調べるのをやめたほうがいい。あの病院に関わった人は、みんな不幸になる。あなたのお祖父様も——」


 ██さんは言葉を切った。

 私は彼女の目を見た。


「おじいちゃんも……何ですか?」


 長い沈黙。


「……亡くなる直前、おじいさんは私に言ったの」

「何を?」

「『あの人が来る』って。『あの人が名前を呼んでる』って」


 店内のBGMが、やけに遠くに聞こえた。


「私はその時、何のことか分からなかった。でも今なら分かる」


 ██さんは帰り支度を始めた。

 私は慌てて立ち上がった。


「待ってください。もう少しだけ——」

「これ以上は無理。ごめんなさい」


 彼女は財布から千円札を取り出し、テーブルに置いた。


「お茶代。あなたの分も払っておくわ」

「いえ、そんな——」

「いいの」


 ██さんは私に背を向けた。

 そして、歩き出す直前に、振り返らずに言った。


「あの人の名前……覚えちゃダメよ」


 その声は、警告というよりも、祈りのように聞こえた。


「覚えたら、あの人が来るから」


         ◆


 ██さんが去った後、私は一人でファミリーレストランに残っていた。

 冷めたコーヒーを見つめながら、彼女の言葉を反芻する。


 「覚えたら、あの人が来る」


 もう遅い。私は既に、その名前を知っている。

 四月朔日。

 わたぬき。

 スマートフォンが振動した。

 匿名とくめいの送り主からのメール。


『取材は進んでいますか。

 追加の資料をお送りします。

 警備員の記録と、当直日誌の続きです。

 読めば、あの病院で何が起きていたか、少しは分かるでしょう。

 ただし、知れば知るほど、あなたは深みにはまります。

 それでも構いませんか?』


 添付ファイルが二つ。

 私は躊躇ためらわなかった。

 ファイルを開く。


---


【資料08:警備員巡回記録(抜粋)】


令和██年4月8日(火) 夜間巡回報告


22:00 巡回開始。1階~2階、異常なし。

22:30 3階西病棟、異常なし。

22:45 3階東病棟へ移動。

22:47 廊下奥に人影を確認。患者の徘徊と思われる。声をかけるも応答なし。

22:50 人影を追跡するも、見失う。各病室を確認したが、該当する患者なし。

22:55 念のため看護師に確認。「3階東病棟に歩行可能な患者はいない」との回答。

23:00 再度廊下を確認。異常なし。気のせいだったか?

23:30 巡回終了。報告書作成。


【備考】

今月に入ってから、3階東病棟での人影目撃が三件目。

いずれも確認すると誰もいない。

設備課に廊下の照明確認を依頼しているが、対応されず。

照明の不具合による見間違いの可能性あり。

引き続き注視する。


---


令和██年4月15日(火) 夜間巡回報告


22:00 巡回開始。

23:15 3階東病棟、廊下の照明が点滅。設備課に報告済みだが、未対応。

23:20 廊下奥の個室(3E-01号室)前に人影。

23:21 近づくと人影消失。部屋の中を確認。患者は就寝中。動いた形跡なし。

23:25 廊下を振り返ると、反対側の端に人影。

23:26 追跡するも、角を曲がったところで消失。

23:30 巡回中断。詰所に戻る。


【備考】

3E-01号室の患者について、看護師に確認。

「意識不明の状態が続いており、自力での移動は不可能」との回答。

では、あの人影は何だったのか。

正直に言えば、怖い。

あの廊下には、何かがいる。


---


令和██年4月22日(火) 夜間巡回報告


22:00 巡回開始。

22:30 3階東病棟の巡回を省略。


【備考】

上司に相談したところ、「気にしすぎだ」と言われた。

だが、私はもう東病棟には行かない。

あそこには何かがいる。見てはいけないものが。

先週、同僚の██さんが夜勤中に倒れた。

東病棟の巡回中だったらしい。

今は入院している。原因不明の高熱と、幻覚症状。

私は関わりたくない。


---


 警備員の記録は、恐怖と困惑に満ちていた。

 3階東病棟で何かが目撃されている。だが、確認すると誰もいない。

 3E-01号室。それが、あの患者——四月朔日わたぬきがいた部屋なのだろう。

 意識不明で、自力移動は不可能。

 なのに、夜になると廊下を歩いている。

 私は二つ目のファイルを開いた。


---


【資料09:当直日誌(続き)】


令和██年4月18日(金)


21:00 夜勤開始。

22:00 巡回。異常なし。

23:30 3階東病棟、廊下の照明点滅。何度目だ。設備課仕事しろ。

00:15 仮眠。

02:30 ナースコール。302号室より。「誰かが廊下を歩いている」との訴え。

02:35 廊下を確認。誰もいない。

02:40 302号室の患者を落ち着かせる。「気のせいですよ」と伝える。

02:45 詰所に戻る途中、東病棟の廊下の奥に人影を見た気がする。

02:46 気のせいだ。気のせい。

03:00 仮眠再開。眠れない。

05:00 巡回。異常なし。たぶん。

06:00 日勤への申し送り。


※ここ最近、3階の患者から「夜中に誰かが歩いている」という訴えが増えている。全員が同じことを言う。気味が悪い。


---


令和██年4月25日(金)


21:00 夜勤開始。今日は東病棟の担当。正直行きたくない。

22:00 巡回。

22:30 3E-01号室、患者の状態確認。変化なし。意識なし。

22:31 部屋を出ようとしたら、背後で音がした。

    振り返ったが、患者は動いていない。

22:32 気のせいだ。

22:35 廊下に出る。奥に誰かいる。

22:36 いない。誰もいない。

23:00 詰所に戻る。手が関えている。

23:30 仮眠。眠れない。目を閉じると廊下が見える。

02:00 誰かが呼んでいる。

02:01 気のせいだ。誰も関んでいない。

02:15 巡回。3階西病棟のみ。東には関かない。

05:00 夜が関けた。

06:00 申し送り。


※「震」が「関」になっている。誤字。疲れている。休みたい。


---


令和██年4月28日(月)


21:00 夜勤開始。

22:00 巡回。今日も東病棟には関かない。

23:00 仮眠。

01:30 目が関めた。誰かが関んでいる。

01:31 廊下に関た。誰もいない。

01:32 東病棟の関うから関が関こえる。

01:33 関かない。関きたくない。

01:34 でも関が関まらない。関いてしまう。

01:35


【以降、判読不能】


---


 当直日誌の文字が、徐々に乱れていく。

 「震」が「関」になっている、と本人は書いていた。誤字だと。

 だが、それだけではない。

 日を追うごとに、文章全体がおかしくなっていく。同じ文字が繰り返され、意味が崩壊していく。

 最後のページは、ほとんど判読不能だった。

 私は画面を見つめたまま、震えていた。

 これを書いた人は、今どうしているのだろう。

 考えたくなかった。

 スマートフォンが、また振動した。


『資料は以上です。

 彼女がその後どうなったかは、調べないほうがいいでしょう。

 次の資料は、もう少し核心に近いものをお送りします。

 その前に、一つ質問があります。

 あなたは最近、夢を見ていますか?

 暗い廊下の夢を』


 私は返信しなかった。

 答える必要がなかった。

 毎晩、見ている。

 廊下の夢を。

 そして夢の中で、誰かが私の名前を呼んでいる。

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