4:『夜勤』
匿名の送り主から届いた資料を整理しながら、私は次の取材先を探していた。
医科大学の関係者には接触できた。だが、彼らが知っているのは「派遣医師に何が起きたか」であって、「病院の内部で何があったか」ではない。
病院の中で働いていた人間に話を聞く必要がある。
看護師、医師、事務員、警備員——閉院当時、
私はSNSや求人サイト、医療従事者向けの掲示板などを手がかりに、当時の職員を探し始めた。
三日かけて、一人の看護師に辿り着いた。
██ ██。閉院当時、綾瀬総合病院の3階病棟に勤務していた看護師。現在は
私は彼女の勤務先に電話をかけ、取材を申し込んだ。
「綾瀬総合病院のことを調べているライターです。当時のことをお聞きしたいのですが」
電話口で、彼女は長い沈黙の後、こう言った。
「……いいですよ。ただし、私が話せることは限られています」
◆
待ち合わせ場所は、朔望市内のファミリーレストランだった。
平日の午後三時。昼食と夕食の間の時間帯で、店内には客がほとんどいない。
約束の時間に、一人の女性が店に入ってきた。
五十代半ばくらい。疲れた顔をしているが、目には芯の強さがある。白衣ではなく、地味な私服を着ていた。
「
「はい。お時間をいただきありがとうございます」
元看護師——██さんは、私の向かいの席に座った。
「先に言っておきますけど、あの病院のことは、あまり話したくないんです」
「それでも、会っていただけたのは——」
「あなたのお祖父様が、あそこに入院されてたって聞いたから」
私は息を呑んだ。
電話では、祖父のことは話していない。
「なぜ、それを?」
「
██さんは、私の目を見た。
「三〇四号室。覚えてますよ。穏やかなおじいさんでした。私、夜勤の時に何度か話し相手になったの」
当直日誌に書かれていた記述が蘇る。
『03:45 304号室(瀬野██様)、眠れないとのこと。しばらく話し相手になる』
あれは、この人だったのか。
「おじいちゃんは……どんな様子でしたか」
「最初は普通でしたよ。リハビリも順調で、もうすぐ退院できるって喜んでた」
「最初は?」
██さんの表情が、わずかに曇った。
「……四月の半ばくらいからかな。様子が変わったの」
「どんなふうに?」
「眠れないって言うようになった。悪い夢を見るって。それから、廊下を誰かが歩いてるって」
「誰かが?」
「うん。夜中に、廊下を歩く音が聞こえるって。でも、私が巡回しても誰もいない」
██さんはコーヒーカップを両手で包み込んだ。
「最初は、夜中だから寝ぼけてるのかなって思った。でも、おじいさんだけじゃなかったの」
「他の患者さんも?」
「ええ。3階西病棟の患者さんが、何人か同じことを言い始めた。夜中に誰かが歩いてる。廊下の奥に誰かが立ってるって」
3階西病棟。祖父がいた場所だ。
「それは、幻覚か何かでは——」
「私も最初はそう思った」
██さんは首を横に振った。
「でもね、私も見たのよ」
店内の空気が、一瞬冷えたような気がした。
「何を、見たんですか」
「夜勤の時。
██さんの声が、低くなった。
「でも、近づいたら誰もいなかった。確かに人の形が見えたのに。振り返ったら、今度は廊下の反対側にいた」
「反対側?」
「そう。一瞬で移動してた。そんなの、ありえないでしょう」
██さんはカップを置いた。手が、
「それから私は、夜勤の時に東病棟に近づかないようにした。他の看護師も、みんなそうしてた。暗黙の了解みたいなもの」
「東病棟に、何かあったんですか」
その質問をした瞬間、██さんの顔色が変わった。
目の奥に、恐怖の色が浮かぶ。
「……あそこには、近づかないほうがいい」
「なぜですか」
「あそこには、一人だけ患者がいたの」
「一人だけ?」
「個室に。ずっと意識がなくて、ベッドに寝たきりで。でも——」
██さんは言葉を切った。
私は待った。
「——でも、夜になると、その患者が廊下を歩いてるのを見た人がいる」
「意識がないのに?」
「そう。ありえないでしょう。でも、見た人がいるの。私だけじゃない。警備員さんも、当直の先生も」
██さんは私の目を見た。
「あなた、その患者の名前を知ってる?」
私は答えなかった。
だが、私の沈黙が答えになったのだろう。██さんは小さく息を吐いた。
「……そう。もう知ってるのね」
「教えてください。その患者に、何があったんですか」
「知らないほうがいい」
「でも——」
「聞いて」
██さんは身を乗り出した。
「私はあの病院で五年働いた。いろんな患者さんを見てきた。亡くなる人もたくさん見た。でも、あの患者だけは違った」
「何が違ったんですか」
「分からない。ただ、あの人の部屋に入ると、何かがおかしくなるの。頭が痛くなる。夜、眠れなくなる。変な夢を見る」
██さんの声が、震え始めた。
「私の同僚は、あの患者の担当になってから、おかしくなった。最初は軽い不眠。それが悪化して、幻覚を見るようになって。最後には——」
「最後には?」
「辞めたわ。病院を。それから連絡が取れなくなった」
――行方不明。
派遣医師たちと、同じだ。
「その患者の名前は——」
「言わないで!」
██さんは、ほとんど叫ぶように言った。
「その名前を口にしないで! 聞きたくない!」
私は黙った。
██さんは深呼吸をして、自分を落ち着かせようとしていた。
「……ごめんなさい。取り乱して」
「いえ」
「もう、これ以上は話せない。話したくない」
彼女は立ち上がった。
「あなたも、もう調べるのをやめたほうがいい。あの病院に関わった人は、みんな不幸になる。あなたのお祖父様も——」
██さんは言葉を切った。
私は彼女の目を見た。
「おじいちゃんも……何ですか?」
長い沈黙。
「……亡くなる直前、おじいさんは私に言ったの」
「何を?」
「『あの人が来る』って。『あの人が名前を呼んでる』って」
店内のBGMが、やけに遠くに聞こえた。
「私はその時、何のことか分からなかった。でも今なら分かる」
██さんは帰り支度を始めた。
私は慌てて立ち上がった。
「待ってください。もう少しだけ——」
「これ以上は無理。ごめんなさい」
彼女は財布から千円札を取り出し、テーブルに置いた。
「お茶代。あなたの分も払っておくわ」
「いえ、そんな——」
「いいの」
██さんは私に背を向けた。
そして、歩き出す直前に、振り返らずに言った。
「あの人の名前……覚えちゃダメよ」
その声は、警告というよりも、祈りのように聞こえた。
「覚えたら、あの人が来るから」
◆
██さんが去った後、私は一人でファミリーレストランに残っていた。
冷めたコーヒーを見つめながら、彼女の言葉を反芻する。
「覚えたら、あの人が来る」
もう遅い。私は既に、その名前を知っている。
四月朔日。
わたぬき。
スマートフォンが振動した。
『取材は進んでいますか。
追加の資料をお送りします。
警備員の記録と、当直日誌の続きです。
読めば、あの病院で何が起きていたか、少しは分かるでしょう。
ただし、知れば知るほど、あなたは深みにはまります。
それでも構いませんか?』
添付ファイルが二つ。
私は
ファイルを開く。
---
【資料08:警備員巡回記録(抜粋)】
令和██年4月8日(火) 夜間巡回報告
22:00 巡回開始。1階~2階、異常なし。
22:30 3階西病棟、異常なし。
22:45 3階東病棟へ移動。
22:47 廊下奥に人影を確認。患者の徘徊と思われる。声をかけるも応答なし。
22:50 人影を追跡するも、見失う。各病室を確認したが、該当する患者なし。
22:55 念のため看護師に確認。「3階東病棟に歩行可能な患者はいない」との回答。
23:00 再度廊下を確認。異常なし。気のせいだったか?
23:30 巡回終了。報告書作成。
【備考】
今月に入ってから、3階東病棟での人影目撃が三件目。
いずれも確認すると誰もいない。
設備課に廊下の照明確認を依頼しているが、対応されず。
照明の不具合による見間違いの可能性あり。
引き続き注視する。
---
令和██年4月15日(火) 夜間巡回報告
22:00 巡回開始。
23:15 3階東病棟、廊下の照明が点滅。設備課に報告済みだが、未対応。
23:20 廊下奥の個室(3E-01号室)前に人影。
23:21 近づくと人影消失。部屋の中を確認。患者は就寝中。動いた形跡なし。
23:25 廊下を振り返ると、反対側の端に人影。
23:26 追跡するも、角を曲がったところで消失。
23:30 巡回中断。詰所に戻る。
【備考】
3E-01号室の患者について、看護師に確認。
「意識不明の状態が続いており、自力での移動は不可能」との回答。
では、あの人影は何だったのか。
正直に言えば、怖い。
あの廊下には、何かがいる。
---
令和██年4月22日(火) 夜間巡回報告
22:00 巡回開始。
22:30 3階東病棟の巡回を省略。
【備考】
上司に相談したところ、「気にしすぎだ」と言われた。
だが、私はもう東病棟には行かない。
あそこには何かがいる。見てはいけないものが。
先週、同僚の██さんが夜勤中に倒れた。
東病棟の巡回中だったらしい。
今は入院している。原因不明の高熱と、幻覚症状。
私は関わりたくない。
---
警備員の記録は、恐怖と困惑に満ちていた。
3階東病棟で何かが目撃されている。だが、確認すると誰もいない。
3E-01号室。それが、あの患者——
意識不明で、自力移動は不可能。
なのに、夜になると廊下を歩いている。
私は二つ目のファイルを開いた。
---
【資料09:当直日誌(続き)】
令和██年4月18日(金)
21:00 夜勤開始。
22:00 巡回。異常なし。
23:30 3階東病棟、廊下の照明点滅。何度目だ。設備課仕事しろ。
00:15 仮眠。
02:30 ナースコール。302号室より。「誰かが廊下を歩いている」との訴え。
02:35 廊下を確認。誰もいない。
02:40 302号室の患者を落ち着かせる。「気のせいですよ」と伝える。
02:45 詰所に戻る途中、東病棟の廊下の奥に人影を見た気がする。
02:46 気のせいだ。気のせい。
03:00 仮眠再開。眠れない。
05:00 巡回。異常なし。たぶん。
06:00 日勤への申し送り。
※ここ最近、3階の患者から「夜中に誰かが歩いている」という訴えが増えている。全員が同じことを言う。気味が悪い。
---
令和██年4月25日(金)
21:00 夜勤開始。今日は東病棟の担当。正直行きたくない。
22:00 巡回。
22:30 3E-01号室、患者の状態確認。変化なし。意識なし。
22:31 部屋を出ようとしたら、背後で音がした。
振り返ったが、患者は動いていない。
22:32 気のせいだ。
22:35 廊下に出る。奥に誰かいる。
22:36 いない。誰もいない。
23:00 詰所に戻る。手が関えている。
23:30 仮眠。眠れない。目を閉じると廊下が見える。
02:00 誰かが呼んでいる。
02:01 気のせいだ。誰も関んでいない。
02:15 巡回。3階西病棟のみ。東には関かない。
05:00 夜が関けた。
06:00 申し送り。
※「震」が「関」になっている。誤字。疲れている。休みたい。
---
令和██年4月28日(月)
21:00 夜勤開始。
22:00 巡回。今日も東病棟には関かない。
23:00 仮眠。
01:30 目が関めた。誰かが関んでいる。
01:31 廊下に関た。誰もいない。
01:32 東病棟の関うから関が関こえる。
01:33 関かない。関きたくない。
01:34 でも関が関まらない。関いてしまう。
01:35
【以降、判読不能】
---
当直日誌の文字が、徐々に乱れていく。
「震」が「関」になっている、と本人は書いていた。誤字だと。
だが、それだけではない。
日を追うごとに、文章全体がおかしくなっていく。同じ文字が繰り返され、意味が崩壊していく。
最後のページは、ほとんど判読不能だった。
私は画面を見つめたまま、震えていた。
これを書いた人は、今どうしているのだろう。
考えたくなかった。
スマートフォンが、また振動した。
『資料は以上です。
彼女がその後どうなったかは、調べないほうがいいでしょう。
次の資料は、もう少し核心に近いものをお送りします。
その前に、一つ質問があります。
あなたは最近、夢を見ていますか?
暗い廊下の夢を』
私は返信しなかった。
答える必要がなかった。
毎晩、見ている。
廊下の夢を。
そして夢の中で、誰かが私の名前を呼んでいる。
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