第三章 冷たい
第三章 冷たい
今
夏の甲子園一回戦、これまでもくじ運が悪いと言われていた。今年もその通りになってしまった。鳥取県代表、県立倉吉高校の相手は超強豪の大阪府代表、大阪樟蔭高校。大会二日目、あいにくの雨に見舞われた第二試合は、六回表終了時点で6-0。倉吉高校は手も足も出ていなかった。この回に2点を失った倉吉ナインがベンチに戻ってくる。ただ、彼らの表情は明るい。夏の甲子園に似つかわしくない冷たい雨の中で、彼らの周りの空気は熱を孕んでいる。雨に濡れたアンダーシャツが肉体に張り付き、彼らの熱を奪おうとする。ベンチ最前列の真ん中に座る、よく日に焼けた肌にシワの刻まれた男が口を開いた。彼の顔の左半分、いや、左半身は満足に動いていない。ただ、その言葉を聞いて、選手たちの頬はさらに緩んだようだ。そんな光景を瞳に焼き付けながら、ダグアウトに打ち付ける雨音を感じながら、俺は自分の出番を静かに待つ。
「次の回、三人目だ。振っておけよ。」
先程監督に言われた言葉を反芻する。三人目というのは俺らのエース、高山の打順に代わる、ということだ。監督は、勝負に出るつもりだというのがわかる。手袋のベルトを締め直す。瞼を閉じ、自分の姿を投影する。周りの音が消える。暗闇の中に、バットを構えた俺自身が立つ。この試合、負けられない。
この回の先頭打者、原田が打席に入る様子が見える。ヘルメットには大粒の雨がうちつけ、マウンドの投手はしきりにポケットのロジンに手を伸ばす。投げた初球を原田が打ち返し、センターの前に落とした。先頭の出塁、反撃の狼煙を上げたように見えた。次打者、浅野が打席へと向かう。自分も、ネクストバッターズサークルへと向かう。ヘルメットを被り直し、気合を入れる。二球目、一塁走者の原田が仕掛けた。盗塁、と思った瞬間に打席の浅野がバットを降り出した。バットは鈍い音を響かせ、ボールは三塁手正面へ。取られるーっと思った瞬間、打球は思いがけない軌道を描いた。三塁手の手前で落ち、跳ねるかと思われたボールは地面の水分に衝撃を吸われ、その場に静止した。焦ったサードが急いでボールを一塁へと投げるが、よく濡れたボールは言うことを聞かない。高い弧を描き、カメラマン席へ。結局、走者二三塁を演出する内野安打+エラーとなった。
俺はもう一度手袋のベルトを締め直し、打席へと向かう。審判に代打を告げ、監督の方を向く。サインは無い。プレーヤーの訳でも無いのに、彼の顔が一番自信に満ち溢れていた気がするのは、俺だけじゃ無いだろう。頬を雫が伝う。雨か、汗か、はたまた涙か。そんなことを気にする余裕もなかった。バッターボックスへ入り、相手投手を見つめる。
「七番、高山くんに代わりまして、代打、松元くん。代打、松元くん。」
未来
額を水滴が滑る。あの日の雨ではない、滴ったのは6年後の夏の汗だ。俺たち倉吉ナインは...、いや、甲子園に出場した代の倉吉高校のメンツは、当時の恩師であった前沢元監督の見舞いのために地元へと集まってきた。6年前、2025年に俺たち倉吉高校野球部は史上初の甲子園出場、県勢初の準優勝を果たした。決して能力に秀でた訳ではないチームがあそこまで到達できたのは、監督の力あってこそだと、引退した今でこそ思う。そんな彼も、今や布団での闘病生活だそうだ。癌を患っていると耳に挟んだこともある。また、当時のメンバーと会うのは6年前、大学のために上京した時以来だ。
「次は倉吉、倉吉です。お降りの際は...」
車内放送が流れる。普段、通学に使っていたはずの山陰本線だったが、今日は優勝旗を持って帰ってきた日の光景が浮かんで見えた。ホームへ降り、改札へ向かう。ほんの数年の間に自動改札機が設置され、あの頃の人の暖かみを懐かしく感じる。改札口を出ると、大柄で、海外のバンドTシャツのようなものに金のネックレスをかけた男が立っている。上背があり、腕や足は形の良い筋肉がついている。都会の男の雰囲気を醸し出している。倉吉ののんびりした空気に馴染んではいない。そんな男に声をかけた。
「おーい、省吾!」
そう、彼こそが我らがエース、いや、元エースの高山省吾だ。耳に挿している白いイヤホンを取り、こちらに手を振る。体格、雰囲気からは想像もできないほどあどけない笑顔だ。自然とこちらの頬も緩む。
「久しぶりだな、碧。」
まるで6年前に戻ったようだ。久しぶりに下の名前で他人に呼ばれた気がする。彼からの励ましの言葉は必ず、自分を碧と呼びかけてくれていた。小学生の時は「女っぽくて嫌だ。」なんて言っていた名前もいつしか、呼ばれて心地の良いものに変わっていった。彼の目線がこちらから逸れる。それを追って自分も振り返る。こちらに手を振る、坊主頭が見えた。思い出そうとする必要もない、あの頃とまるで変わっていない元球児がいた。原田由之。引退して長い年月を経ているのに、彼の頭は青々としている。あの夏を戦った青年が、少しオシャレをし始めた程度にしか見えない。
今日は、自分ら三人で合流し、少し歩いて食事処に行く予定だ。倉吉駅から徒歩で15分。見渡す限り平らな街並みを懐かしみながら、料亭「中野屋」に入った。ガラガラと音を立てて開く扉が、自分たちを6年前に引き戻す。
今
代打のコールをされて、俺は打席へ入る。ベンチに目を向け、監督の方を向く。ーーーまるでロボットのようだといつも思っていた。何かを指示されなければできない、そんな指示待ち人間は嫌いだった。中学時代はバントばかりした。チームのため、勝つためと言われ、打球を転がす方向まで指示されないとできなかった。だから俺はこの監督が好きだ。試合でサインを出すことがない。形式上のサインを出すが、プレーは俺たちに任せる。そんな監督は、今も笑顔だ。本人曰く半身麻痺でうまく笑えないらしいが、試合中の表情はいつも明るい。冷たい雨に奪われかけた体温が、彼の笑顔のおかげで取り戻された気がした。打つぞ。呟いた。視線を投手へと移し、構える。六回ウラ無死二三塁、初球だった。セットポジションで投げ出した投手の指に弾かれたボールは、雨を裂きながら俺の目元を目掛けて走る。咄嗟に後頭部で受けた。強い衝撃を受けた。ヘルメットが飛んでいく。衝撃を受け止めるために踏み出した足は、泥を掻くだけ。気づけば、胸から地面に倒れ込んでいた。冷たい。腹をはじめとした前半身が冷えていった。両ベンチからたくさんの人が駆け出してくるのが見えた。その奥で監督の顔が青ざめている様子も目に焼き付いている。
未来
べちっ...頭を引っ叩かれた。横を見れば省吾が微笑んでいる。お前も頼めよと言わんばかりに、由之がメニュー表を差し出している。
「碧はとり天丼だべ?」
省吾の言葉に頷く。
「ここのとり天が一番うまいんよ」
由之は笑っている。店員に伝えて注文を終えた。とり天丼560円。あの頃の値段のまま。街を出て変わっている自分を、この街は変わらず出迎えてくれているようだ。甲子園を終えて帰ってきた日も、ここのとり天丼を食べたような気がする。あの日は、お店が全部ご馳走してくれたのだった。
「そういえばさ」
過去を回想している中、省吾が口を開いた。
「富岡商業との試合、覚えてるか?」
自分と由之の目が合う。自分はあまり覚えていない。由之の表情はなんとも絶妙だ。ほぼ同時に首を横に振った。それを見た省吾が呆れたような口で語り始めた。人の少ない店内に淡々と声が響く。厨房から聞こえる油の音が遠のく。
「あの試合さ、相手監督の名前は覚えてるか?そう、碧と同じ読みの松元葵って人だったんだ。その時は珍しいなって思っただけなんだけど、その松元さんさ、もう死んじまってるみたいなんだ。なんでも、六年前の夏。だから、あの試合の後で神奈川の殺人事件に巻き込まれたっぽい。けど、その事件の犯人も一緒に死んだらしくて、なんで殺されたかもわからないんだってさ。この記事送っておくから読んでみてな。」
スマホが震える。地元に帰ってきてまで物騒な話をするなよと内心で思いながらも、少し恐怖を感じていた。あの夏を過ごした知っている人物、そして同じ名前の人物が殺されるなんて。そんな感情を飲み込むために、お冷を口に流し込んだ。冷たい。けれど、心の奥では過去の事として適当に流しかけている自分もいた。なんで省吾は昔の話を掘り返すのだろう。そういえば...監督の昔話を聞いたことがあったな...。
白球は打つ 青葦 司馬丸 @_naik_0719
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