第二章 何も知らない
真
県立久里浜高校の放課は15時半、まとめた荷物を肩に掛け、C棟2階の文芸部の部室へと向かう。渡り廊下の窓には、小雨がぶつかる様子が映っている。こっちも雨なのか...ボソッと呟きながら扉を開けた。部室には誰もいない、はずだがテレビが点いている。昼休みにつけたままだったのだろう。画面の中の甲子園では真っ黒に汚れながらも表情を崩さない投手の顔がアップになっている。ふと、活動予定表に目を移す。今月末に野球記事の投稿の予定がある。そろそろ取材をしなければならない時期だ。この季節ならば甲子園を取り上げなければウケないだろう。しかし、記事として深掘りしたいのは決まっている。あの動画だ。聡は乗ってくれないだろう。一人で完結するつもりだ。
はぁ...ため息が漏れる。調べたいとはいえ、どうやるか。有益な情報は見つからなかった。まずは佐原二高時代について知っている人物に質問する必要がありそうだ。先は長いな...と思っていた中、ポケットのスマホが震えた。誰かからメッセージだろうか。スマホを取り出し、通知を確認する。アイコンは例の動画投稿サイトだ。メッセージではない。新規投稿の通知だ。字面を見て自然と背筋が伸びた。
新規投稿 砂糖太郎 1件の動画
気づけば、スマホを両手で支えて親指は通知を追っていた。画面が動画を映し出そうと渦巻く、画面に映る顔の表情を隠すように。読み込む時間がいつにも増して長い気がした。目線をテレビに移す。
「あぁーーっと!牽制アウトです!」
実況の興奮気味の声が聞こえる。泥まみれのグラウンドでは、投手の白い歯だけが輝いていた。
祐希
空から滴る水滴が輝く。横須賀中央駅前のハンバーガーチェーン店の前で、アーケードの下、雨を凌ぎながら立っていた。夏休みの真っ昼間、(といっても、日差しは全て重い雲が隠してしまっているが。)目の前を行く男子高生のスマホには、晴れ渡る甲子園が微かに見えた。野球、なんと素朴な響きだろう。そんなことを考えているうちに、右手に持つスマホが私を呼んだ。今日、ここに来た理由はただ一つ。松元葵に会うためだ。ただ、彼の連絡先を知らなかったため、まずは高校時代の旧友と会うことにした。例の動画について自分で調べたが、未だ再生数に対してのリアクションが少ない。それだけ興味を惹く物ではないのだろう。逆に好都合だ。私はこの動画の真意を知りたい。誰に知られずとも自分の手で真実を掴み取るつもりだ。右手のスマホに目を落とす。メッセージの相手の名は「まつの」とある。松野毅、高校時代、野球部で共に汗を流した仲間だ。彼は三塁を守っていた。あの日も...。画面上のメッセージが更新された。
「遅れてすまない。そろそろ着きそうだ。」
不届きものだ。久しぶりの再会で遅れてくるなよ、と内心ではツッコミを入れながら、バーガーショップに入る。チーズバーガーセットを頼んで席を取る。2階窓際の隅、昔もここの席で食べた記憶を思い出す。あの頃はもう野球を辞めていたか...?階段を上がる音が聞こえた。目を移すと、黒のTシャツ、短パンに身を包んだ大柄な男が上がってきた。そんな体に似合わない童顔の広い額には、大粒の汗が浮いている。目と目が合った。懐かしい感覚かもしれない。そんなことを感じながら舐めた唇は、乾いた物同士の擦れあいだった。松野が、目の前の席にトレイを置く。ドリンクの氷が揺れる。今月に入って10日目の冷たい雨を孕む夏という設定の外気の中、私たちだけは20年前の空気を吸っていたようだった。
真
冷たい空気が喉に広がる。砂糖太郎の新規投稿を見た。まだ鼓動は時を細かく刻んでいる。この胸の高鳴りは、嬉しいとか緊張とかの類ではない。心苦しい中での一筋の光に喜びを見出してしまっている。そんな自分に反吐を吐きながら、もう一度映像を見直した。スマホの画面にはこの前の映像の続きと見られる動画が流れ出す。
「この死球は、顔面でしょうか...。富岡商業高校の前沢、うずくまっています。審判からのアナウンスです...。あっと、一時中断のようです。」
普段は淡々と読み上げるイメージのある実況が、本気で焦っているのが息継ぎで伝わる。映像の中で、倒れた水色の選手は動かない。程なくしてベンチから担架が運ばれてくる。カメラは引き、球場全体を俯瞰する視点で止まった。外野手たちはセンターに集まり、内野手たちはホームに集まっている。ただ、投手だけはマウンドから降りていないようだ。スタンドの波は収まり、凪いている。画面が暗転していく。先ほどよりも幾分か落ち着いた顔の俺が写っていた。説明欄に目を移す。
「彼は死んでないけど、殺されたよ」
どういう意味だろうか。ただ、情報が増えたのは確実だ。この映像について掘り下げる決心がついた気がする。窓を叩く雨の音が止んだ。きっと甲子園では、今日も熱い戦いが繰り広げられているのだろう。
祐希
甲子園を目指した、あの夏の空気を吸いながら、私と松野は過去を回想していた。正確には、松野も過去を回想しているものだと思い込んでいただけだが。暗い空の雲のダムが決壊したかのように、雨粒が窓にぶつかる音が騒がしくなった頃にようやく、本題に移ることとなった。
「松野は松元先輩のこと、何か知ってるのか?」
一言で吐き出した。一間置いて、松野は乾いた唇を潤すように、紙ストローを吸う。私もそれに乗じてドリンクに手を伸ばした。コーラの炭酸が口に広がる。口の中で嫌なほどに弾ける泡と同じテンポで、私の心臓は脈を打っていた。彼の口が開かれるーと思っていたが、彼の目線は左手に持つ手提げ鞄に向けられた。何やら鞄を漁っているようだ。無言。窓に打ち付ける雨粒の音と、下の階の自動ドアの開閉の音だけが耳に残る。
「これをみて欲しい。」
彼は一切れの紙を机に滑らせた。新聞紙のようだ。見出しにはこうあった。
〔佐原町で通り魔事件発生。犯人は不明。〕
ーーー。いったい、彼と何の関係があるのだろうか。松野を見つめ返す。彼の口がゆっくりと開かれた。
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