白球は打つ

青葦 司馬丸

第一章 ただの記録

第一章 ただの記録


キンッーーー

鋭い金属音が空に響く。陽炎が揺れる黒土の上を白球が這って行く。土で汚れた白地のユニフォームを着た選手が身を放り出すが、赤いグローブには触れなかった。白球は青い芝の上まで転がる。そのうちに本塁が黒いスパイクで踏まれた。9回オモテ、3-2の試合が4-2に動いた瞬間だった。

球場全体を黄色い歓声が包む。三塁側スタンドの水色が揺れている。神奈川県大会3回戦、2時を回った灼熱の中で人々が活気を取り戻している。ーー富岡商業高校ーー対ーー佐原第二高校ーー。7回までの0の行進が、この30分弱で覆された。

富岡商業この回3点目の猛攻。無死三塁からの左前安打。16年ぶりの4回戦出場を目指す佐原第二高校に決定打をぶつけた。

佐原ナインには、疲れ、焦り、興奮、不安、えも言われぬ空気感が漂う。扇の要、捕手も例に漏れず焦っていた。この回始まって四連打で三失点。未だノーアウトで走者は一塁。どうやって切り抜けようか...。と悩んでいるのだろう。次の打者は四番打者、安打は許していないが、鋭い当たりが出ている。

「タイムお願いします。」

捕手が審判に告げ、マウンドで青白い肌をしている投手のもとへ向かった。一言二言耳打ちして、また本塁の後ろへと戻って行く。投手の表情はいくらか明るくなったようだ。

打席に富岡の打者が入る。水色のアンダーシャツが彼の腕の逞しさを強調する。鋭い瞳で見つめる先に、深緑色のアンダーシャツで汗を拭う佐原の投手。

セットポジションに入り、一呼吸おいた。打者はバットを揺らしながらタイミングを待つ。三塁側スタンドからは、吹奏楽の応援が聞こえる。

投手が足を踏み出し、白球に力を込めて放り出した。打者も足を踏み出し、黒いバットでボールを迎えに行く。ボールは、真っ直ぐ糸を引いて打者の頭へ。

ガツッ...

バットではない音が鈍く響いた。水色のユニフォームを纏った選手が、黒土の上に倒れているようだ。マウンドの上では投手が立ち尽くしている。吹奏楽の応援も、黄色かった声援もない。誰もが呆然と立ち尽くすだけだ。


ーーー映像はここで途切れている。

とあるSNSに挙げられた一本の動画、それが話題になっていると知り、探していたのだ。映像は、「砂糖 太郎」というハンドルネームのアカウントが投稿しているようだ。説明には、「これは殺人?」とだけが記されている。

今は甲子園の真っ最中。後ろのテレビでは一回戦を流したままだ。水色のユニフォームの富岡商業高校はちょうど、今夏の甲子園大会に出場している。ただ、この映像の画質的にはかなり前のものだろう。20年ほど前だろうか。今のメンバーに直接の関係はないはずだが、なぜ投稿されたのだろう。選手名表示の投手の名は、松元と言っただろうか。

「スマホばっかり見てんなよ。真。」

首筋が冷たい。振り返ると聡がコーラ缶を首に押し付けている。聡と自分、真は高校の同級生。神奈川の県立高校で文芸部に所属している。二人とも趣味で野球を見ていて、野球関係の記事をウェブに投稿することもある。

「神奈川の初戦は大阪になりそうだな。」

テレビを見ながら呟いていた。頷きながらコーラをもらう。スマホを閉じ、缶を開けながらテレビに目を移す。雨の中で試合が行われている。大阪代表対鳥取代表。試合は六回表で6-0で大阪が勝っているようだ。俺はつぶやいた。

「大阪は強いよ。」

雨の甲子園では、大差をつけられながらもこのピンチさえ凌げば...と諦めそうにはない鳥取の選手たちがマウンドに集まっている。ベンチの垂れ幕にはーー昨日の自分を超えろ!!ーーと書かれていた。


祐希


「後藤!」

不意に背後から呼ばれた。この声は同期の赤澤だろうか。振り返ると、案の定彼女がスマホの画面をこちらにかざしている。

「この動画知ってる?」

彼女、赤澤莉子のスマホを覗き込む。画面には、高校野球の中継のような映像が映る。水色のユニフォームを纏う選手が打席に立つところのようだ。その後ろに捕手が映った。...これは、自分だ。記憶はハッキリとしないが、高校野球をしていた頃...。たしか、24年前。当時高校一年生の自分、後藤祐希がミットを構えている。投手が投球動作に入った。指を離れたボールは打者の頭へ...。打者は倒れ、自分が駆け寄っている...。映像が終わった。一体何の場面なのだろうか。はっきりとは思い出せない。まずまず、野球を見たのはいつぶりだろうか。頭の整理がつかなかった。

「古い映像だけどさ、野球やってた人ならわかるかな?って」

彼女の笑顔が遠のく。赤澤の声が脳内にこだまする。後ろで点けたままのテレビでは、高校球児が礼をしている。スコアは...7-8のようだ...。頭が真っ白になるというのはこのことだろう。気がつけば私は意識を失っていたようだ。そのことに気づいたのは夕方。見慣れない天井、古びたベットの感触、ここは病院だと理解するのにも時間がかかった。非現実感の中で、あの映像が頭に浮かぶ。あの打者はどうなったのだったか...。投手の名は...思い出せない。記憶に靄がかかっているようで、大切なところが思い浮かばない。でも、あの時の空気感は忘れない。息を吸うたびに、身体中の神経が鋭くなる。病院内の蒸された夏の空気の中、肺に刺さる空気を吸っていた。20年強の歳月を経ても、薄れることがなかったのだ...。そこで一つの疑問が浮かぶ。

「誰があの動画を投稿した?何のために?」

その疑問は脳の片隅で浮かんだはずなのに、一瞬にして頭を侵食した。あれは何を伝えたかった?微かに、ただ、確実に、野球という存在が、私の中に燃え始めたのを感じる。もう、昨日の自分とは違う自分になってしまった。



「昨日の試合見たか?」

イヤホン越しの声に振り向いた。イヤホンを外しながら思考を現実に持ってくる。昨日の試合、どの試合のことだろうか。

「お前部室のテレビつけてただろ?鳥取だよ」

ああ、あの試合か。

「大阪が勝ったんじゃないのか?」

六回表時点で6-0だったのを微かに覚えながら尋ねる。

「あの後に鳥取が8点取り返したんだよ」

なんと、意外な幕切れだ。とは思ったものの、俺の意識は昨日の動画のことでいっぱいだ。そんな話をしながら俺と聡は教室へと向かった。神奈川県立久里浜高校、B棟の2階、2-2の教室に入る。HRが始まるまでスマホをいじる。昨日の動画が何か気になる...。ただの好奇心かもしれないが、関連した事柄をスマホに打ち込んでみた。

高校野球 事故

神奈川県大会 デッドボール

佐原第二高校 野球

富岡商業高校 野球

松元葵 野球

どれも有益な情報はない。また、佐原第二は廃校になっているそうだ。いや、正確には佐原第二は北久里浜高校と合併して、久里浜高校ーーつまり、この学校になっているそうだ。だが、別に新たな発見はない。ただ、気になることは残っている。昨日の動画には、打者の名前が載っていない。殺人と言っていたのなら、投稿者は彼の遺族か?まずまず、彼は本当に亡くなってしまったのだろうか...。そうこう言っているうちに担任がクラスに入ってくる。この話は放課後にお預けだろう。


祐希


昨日の気絶から一日が経った。会社を休んでいるはずだが、あまりリラックスできていない。今朝、ニュースを見るためにつけたテレビには、昨日に続いて雨の甲子園が映っている。

「2025年8月12日、本日の第二試合は雨の影響で開始時刻を遅らせるそうです。」

窓の外は暗く、雲が立ち込める。アイスコーヒーは汗をかいている。病院で目が覚めた後、疲労ですね、とだけ言われて家に帰った。あれからは眠れずに野球について考えていた。高校球児の後藤祐希、まるで別人の過去の姿を見ているようだ。私が野球を始めたのは...


ーーー2001年4月

青い空の下、グラウンド脇の桜の木は明るいピンクに染まっている。佐原第二高校に進学した後藤祐希は、大きな希望を持って野球部に入部した。中学時代は公立中学の野球部で4番捕手、主将も務めた。が、競合の誘いを断り、近所の佐原二高へと進んだ。かれは気楽な野球を求めていた。

部員は17名、そこに新入生7人が加わり、総勢24名の野球部員。到底多いとは言えない人数だが、活気溢れるグラウンドで、彼は一際輝いていた。

ーーー6月下旬

湿った土の匂いに包まれながら、鋭い金属音がグラウンドに響く。大会前、皆が集中を高めている。

「監督、あいつをスタメンにしてください。」

そう直談判する声が聞こえた。声の主は松元葵、佐原二高のエースだ。後藤の打撃センス、守備の指示の的確さに惚れ込んで、キャプテンとして監督に懇願しているようだ。松元は後藤に付きっきりで練習をし、二人で高め合う、言わば相棒的な立場をこの二ヶ月弱で作り上げたようだ。弱小高と呼ばれるようなチームの中で一人浮いていた松元と、似たような立場だったことが最も大きかったのだろう。結局、監督が折れて、背番号2を渡すことを決断したようだ。

ーーー7月5日

遠くに見える白い入道雲を横目に、神奈川県大会が開幕した。背番号1松元と背番号2後藤が、キャッチボールをしている。一塁側スタンドは緑に染まり、吹奏楽部の音合わせが始まっている。弱小と呼ばれるような高校だが、スタンドには在校生も卒業生も多い。野球部の特別感を実感し、初めての夏を迎える後藤の額には汗が浮かんでいる。


どんな試合をしたのだろうか。よく覚えていない。あの投手の名は松元と言ったのか。仲が良かったはずなのに、連絡先はわからない。一体どこにいるのだろう、何をしているのだろう。松元葵 懐かしい響きな気もする。彼に会えれば何かがわかるかもしれない。気づけば私は寝巻きを脱いで、新しいTシャツに手を伸ばしていた。点けっぱなしのテレビから声が聞こえた。

「夏の甲子園、本日の第二試合に出場する選手たちがグラウンドへと出てきました。これからアップを行うようです。」

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