村上春樹初期その5 成功例

 テレビの速報音は途中で切れた。停電ではなかったが、画面は止まったまま動かなかった。スマートフォンも繋がらず、窓の外はいつもと同じように静かだった。どこかの国から核ミサイルが発射され、着弾まで三十分を切っているらしかった。正確な数字はわからなかった。


 妻はソファに座っていた。抗癌剤の影響で髪はすべて抜けていて、頭の形がそのまま見えていた。帽子は被っていなかった。もう必要ないと言っていた気がする。彼女はテレビを見ず、僕のほうを見ていた。


「コーヒー、飲む?」

 僕が聞くと、妻は少し考えてから首を振った。吐き気が来るかもしれないと言ったが、声は落ち着いていた。


 キッチンで水を沸かした。習慣だった。意味があるかどうかは考えなかった。湯が沸くまでのあいだ、祖父のことを思い出した。日系三世として生きていたが、原爆の話はあまりしなかった。父は被爆二世で、検査のたびに黙って結果を聞いていた。その態度が、なぜか今も頭に残っている。


 カップを二つ出したが、一つはそのまま戻した。妻はそれを見て、何も言わなかった。コーヒーを一口すすった。苦かった。いつもと同じ味だった。


 妻が、窓の外を見ながら言った。

「空、きれいね」

 特別な色ではなかった。夕方には少し早い時間で、雲も薄かった。僕はそうだね、と答えた。


 彼女は自分の頭に手を当てた。撫でるような仕草だった。髪があった頃よりも、その動作はゆっくりだった。痛みは今は落ち着いていると言った。次の治療の予定は、もう確認しなかった。


「ここまで来たら、続きはないのかな」

 彼女は独り言みたいに言った。何の続きなのかははっきりしなかった。病気のことか、生活のことか、別の何かなのか。


 僕は返事をしなかった。返事をしないことが、今は自然に思えた。


 時間を確認しようとしたが、正確な時計がどれなのかわからなかった。電子機器は信用できなかったし、壁の時計は少し遅れていた気がした。三十分という言葉だけが、頭の中に残っていた。


 妻がこちらを向いた。

「あなた、怖い?」

 僕は少し考えた。怖くないと言うのも違う気がしたし、怖いと言うのも正確ではなかった。

「よくわからない」と答えた。

 彼女はそれでいい、というように目を閉じた。


 部屋の中は静かだった。外からサイレンは聞こえなかった。避難が間に合わないという情報だけが、どこかで確定していた。僕たちは特別なことはしなかった。手をつなぐことも、何かを誓うこともなかった。


 妻の呼吸は規則的だった。抗癌剤の影響で浅くなることもあったが、今は安定していた。僕はその呼吸を数えようとしたが、途中でやめた。


 祖父が見た光のことを、ふと想像した。想像しただけで、実感はなかった。想像はいつも、現実よりも軽かった。


 残り時間がどれくらいなのかは、最後までわからなかった。わからないまま、僕はもう一口コーヒーをすすった。冷め始めていたが、それも悪くなかった。

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