村上春樹初期その4

 その日は朝から特別な感じはなかった。天気予報では雨が降ると言っていたが、空はまだ持ちこたえていた。シャツにアイロンをかけ、乾ききっていない靴を履いた。鏡を見ると、支持者らしい顔には見えなかったが、それを問題だとは思わなかった。


 最寄り駅で降りると、同じ方向に歩く人が何人かいた。皆、無言だった。誰が仲間なのかは判別できなかったが、結果的に同じ場所に向かっているのだから、違いはなかった。駅前の広場には、すでに音響機材が設置されていた。


 旗が何本か立っていて、色は派手だった。党名は知っていたが、正確なスローガンは覚えていなかった。配られたチラシを一枚受け取って、折り目をつけてポケットに入れた。読む気は起きなかった。


 スタッフらしき人が拡声器で何かを説明していた。集合時間や立ち位置の話だったと思う。内容は頭に残らなかった。残ったのは、拡声器の音が少し割れていたということだけだった。


 街頭演説が始まると、人の流れが一時的に止まった。候補者はよく通る声で話していた。何度か拍手が起き、そのたびに僕も手を叩いた。叩くタイミングは周囲に合わせただけで、意味は考えなかった。


 途中で雨が降り出した。小雨だった。傘を差す人と、差さない人がいた。僕は差さなかった。濡れるほどではなかったし、濡れない理由もなかった。足元の水たまりだけが増えていった。


 演説は続いた。話の区切りごとに拍手が起き、旗が少し揺れた。候補者の言葉は次々に流れていき、どれも同じ重さで耳を通過した。理解できないわけではなかったが、理解する必要も感じなかった。


 終了の合図が出て、人はばらけ始めた。スタッフが礼を言い、次の予定を告げていた。僕はもう一枚チラシを受け取り、今度はそのままゴミ箱に入れた。紙は軽い音を立てて落ちた。


 帰り道、コンビニに寄ってコーヒーを買った。レジの店員は特に何も言わなかった。カップを持って外に出ると、雨は止んでいた。空気は少しだけ冷えていた。


 歩きながら、今日何をしたのかを整理しようとしたが、うまくいかなかった。応援に行った、という事実だけが残った。それが良かったのか悪かったのかは、決めなかった。


 家に着き、靴を脱いだ。ポケットから折れたチラシが出てきた。広げて眺めたが、文字はあまり目に入らなかった。そのまま机に置き、コーヒーを一口すすった。少し苦かった。それで十分だった。

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