村上春樹初期その1
僕がその喫茶店を任されるようになって三年が経った。駅から少し離れた場所にあって、昼と夕方のあいだに来る客はだいたい決まっている。豆は深煎りを使い、抽出は毎回ほとんど同じ条件でやる。大学院まで行ったわりには、今やっていることは単純な反復作業の集合に近いが、そのことについて特別に考えることはない。朝は店を開ける前に走り、夜は帳簿をつけてから原稿用紙を一枚か二枚埋める。それが僕の生活だった。
走るのは嫌いではない。靴を履いてドアを出ると、身体は勝手に前に進む。川沿いのコースを選ぶことが多く、信号も少ない。走りながらヤクルトの先発ローテーションのことを考えたり、昨日書いた文章の語順を入れ替えたりするが、どれも深くは掘り下げない。考えても結論が出ないことは、考えないほうが楽だと知っている。走り終えると、汗と一緒にそういう思考もだいたい流れていく。
ある朝、店のカウンターの端に見慣れないカップが置いてあるのに気づいた。うちで使っているものより少し重く、底が異様に厚い。誰かが置き忘れたのだろうと思い、そのまま棚にしまった。次の日も、また次の日も、そのカップは同じ場所に戻ってきた。客の顔ぶれは変わらないし、誰もそれについて何も言わない。僕も特に理由を探さず、洗って、拭いて、棚に戻した。
夜、原稿用紙に向かうと、なぜかそのカップの形が頭に浮かんだ。文章は進まず、文字数もいつもより少なかった。小説家になりたいと思っているが、その「なりたい」という状態がいつまで続くのかはわからない。応募した新人賞の結果もまだ来ていないし、来たところで何かが変わるとも限らない。ペンを置いて、ラジオで野球中継をつけると、ヤクルトは七回でリードしていた。
翌朝も走った。川の水位は前日と同じで、空気も特別ではなかった。店を開けると、例のカップはカウンターの端にあった。今度は中に少量の水が入っていて、表面に小さな泡が浮かんでいた。僕はそれを捨てず、コーヒーも注がず、そのまま営業を始めた。昼過ぎ、常連の一人がそのカップを手に取り、何も言わずに席に戻った。僕は豆を挽きながら、その光景を見ていたが、意味づけはしなかった。何かが起きているようでもあり、何も起きていないようでもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます