第2話 殺される覚悟
翌日もお嬢様はおかしかった。
おままごともお人形遊びもしない。代わりに、私に質問ばかりする。
「この国はいつ建国されたの?」
「え……えっと……三百年くらい前、でしょうか……」
「三百年。大体ね」
「す、すみません……」
「現皇帝の名前は?」
「フリードリヒ三世陛下、です」
「即位してから何年?」
「大体……十年くらいかと」
「……曖昧ね」
お嬢様の視線が冷たい。私は身を縮めた。
「民の暮らし向きは? 税はどれくらい取られているの?」
「……わかりません」
「貴族たちの評判は? 不正はどれくらい蔓延しているの?」
「……」
答えられないことばかりだった。
私はメイドだ。政治のことなんて知らない。知る必要もないと思っていた。
お嬢様は小さくため息をついた。
「エマ、あなた、もっと勉強しなさい」
「は、はい……」
五歳に説教される十五歳。
なんだか、とても情けない気持ちになった。
それから数日。
お嬢様は相変わらず、国のことばかり調べている。旦那様の書斎から帳簿を引っ張り出し、古い地図を広げ、来客があれば耳をそばだてている。
五歳児の行動じゃない。
でも、私はもう驚かなくなっていた。お嬢様がどうなってしまったのか、私にはさっぱりわからない。ただ、これまでのお嬢様とは違う。それだけは確かだった。
そして、ある夜のこと。
就寝前、お嬢様の着替えを手伝っていた時だった。
「エマ、一つ聞いていい?」
「はい、お嬢様」
「悪いことをした人は、罰を受けるべきよね?」
「……はい、そうだと思います」
お嬢様は窓の外を見ていた。月明かりが、小さな横顔を照らしている。
「殺す連中は、殺される覚悟があるのよね?」
「……は?」
「『殺す連中は、殺される覚悟があるのよね?』と聞いてるの」
私は言葉に詰まった。
何の話をしているのだろう。
でも、お嬢様の声は真剣だった。五歳児の声じゃない。何かを確認するような、冷たい声。
「……そう、かもしれません」
私はそう答えた。
お嬢様は満足そうに頷いた。
「ありがとう、エマ。おやすみなさい」
「お、おやすみなさいませ……」
お嬢様は布団に入り、すぐに目を閉じた。
私は部屋を出ながら、ずっと考えていた。
何の話だったの……?
◆
翌朝。
屋敷が騒がしかった。
使用人たちがざわついている。何かあったのだろうか。
「何かあったのですか?」
私が尋ねると、同僚のメイドが青ざめた顔で答えた。
「王城で……大変なことが……」
旦那様が蒼白な顔で戻ってきた。
「王族が……晩餐会で……食あたりだそうだ。毒見役も含めて……幼帝以外、全員が……」
全員。
王族が、全員死んだ。
食あたりで。
私は背筋が凍った。
昨日の会話が、頭の中で響いている。
『殺す連中は、殺される覚悟があるのよね?』
まさか。
まさか、まさか。
お嬢様は窓辺に座っていた。小さなテーブルで、紅茶を飲んでいる。五歳児が紅茶を嗜む姿。足は床に届かず、ぶらぶらと揺れている。
「あら、大変ですわね」
その声に、感情がない。
私はお嬢様を見つめた。お嬢様も私を見た。
冷たい、氷のような目。
口元だけが、かすかに笑っている。
──怖い。
私の視線に気づいたのか、お嬢様は小さく首を傾げた。
「どうしたの、エマ?」
「お、お嬢様……まさか……」
私は震える声で尋ねた。尋ねてはいけない気がした。でも、聞かずにはいられなかった。
お嬢様は紅茶のカップを置いた。
そして、嬉しそうに笑った。
「フグの毒……正式にはテトロドトキシンというのだけれど」
お嬢様が唐突に語り始めた。
テトロドトキシン? フグ?
「神経毒よ」
足をぶらぶらさせながら、淡々と、まるで授業のように。
「人の体には、神経という……そうね、命令を伝える糸のようなものが張り巡らされているの」
お嬢様は自分の腕をなぞった。
「脳が『手を動かせ』と命じると、その命令が神経を伝って手に届く。だから手が動く。わかる?」
「は、はあ……」
「神経が命令を伝えるとき、ナトリウムという物質が神経の中を出入りするの。テトロドトキシンは、その出入り口を塞いでしまう」
ナトリウム? 何の話をしているのだろう。
「出入り口が塞がれると、命令が伝わらなくなる。脳がいくら『動け』と命じても、体が応えなくなるの」
お嬢様は自分の唇を指さした。
「最初に麻痺するのは、ここ。唇と舌。神経が細かく集まっている場所だから。次に指先。それから腕、足……最後は呼吸を司る筋肉が止まる」
息を吸うことすらできなくなる。
「意識は最後まであるの。自分の体が動かなくなっていくのを、ずっと感じながら死ぬのよ」
五歳の少女が、人の死に様を語っている。
「そして、この毒は無味無臭。色もない。味もない。匂いもない。だから料理に混ぜても誰も気づかない」
「……」
「加熱しても分解しない。煮ても焼いても、三百度を超えない限り消えないわ」
三百──度?
「銀の匙でも検出できない。銀が黒く変色するのは硫黄を含む毒だけ。テトロドトキシンは硫黄を含まないの。だから毒見役も気づかない」
お嬢様は紅茶を一口飲んだ。
「致死量は塩を一つまみするより少ない量。たったそれだけで、大の大人が死ぬ」
一つまみ。そんな少量で。
「どこかの名探偵のように『ペロリ、これは青酸カリだ!』なんてやらないことね。死ぬわよ」
……何の話?
「発症まで二十分から三時間。毒見役が食べてから王族に配膳されるまで十分。王族が食べ始めてから食べ終わるまで十分。毒見役が倒れる頃には、全員の体に毒が回ってる」
計算し尽くされている。
「毒見役は食べてもすぐには発症しない。だから、みんな安心して食べたのね」
お嬢様はくすくすと笑った。
「そして……解毒剤は存在しない。ナトリウムの通り道を塞ぐ毒を取り除く方法は、この世にないの。どんな名医でも、どんな祈祷師でも、絶対に助けられない」
お嬢様は満足そうに頷いた。
「勉強になったでしょう?」
二人の間に静寂が走る。
手が震える。
言うことを聞かない口から、かろうじて言葉を紡ぎ出す。
「お嬢様──が?」
「なんのことかしら?」
お嬢様は小首を傾げた。
「私はただフグ毒のことを説明しただけよ?」
その顔に、悪びれた様子は一切ない。
「……」
「カール様だけはまだ離乳食だったから、助かったわ。よかったわね」
からからと笑うお嬢様。
よかった。
何が、よかったというのだろう。
私は、とんでもない人に仕えているのかもしれない。
でも……。
「お嬢様」
「なに?」
「私は……お嬢様のメイドです」
お嬢様は目を細めた。
「知ってるわ」
「ですから……何があっても、お嬢様のお傍にいます」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからない。
でも、お嬢様は嬉しそうに笑った。
「いい子ね、エマ」
その笑顔は、昨日までのお嬢様と同じように見えた。
でも、その奥にあるものは……きっと、まったく違う。
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