第2話
体育館の裏手から聞こえた、ガラス細工のように繊細な悲鳴。
「――っ、誰か!」
その声を聞いた瞬間、私の思考よりも先に、身体が動いていた。
竹刀を握りしめ、上履きのまま裏手へと走る。
そこには、予想通りの光景があった。
地べたに座り込み、怯える小柄な少女。
そして、彼女を見下ろして笑う、見覚えのある男子二人組。
「何をしている!」
鋭く声を上げると、二人がびくりと肩を震わせた。
私の学校の先輩。剣道部に所属するものの、素行が悪く、巷ではヤンキー扱いされている連中だ。
「んだよ、王子か。びっくりさせんなって」
「なあ? センコウかと思ったじゃんか」
二人は私の顔を見るなり、安堵したように息を吐き、咥え煙草でニヤついた。 その瞬間。
私の右手が閃いた。
「って!」
竹刀が空を切り、先輩の指から煙草を弾き飛ばす。
「あにすんだよっ、ああっ?」
「ふざけているのはどちらですか」
激昂して詰め寄ってくる先輩の首元に、切っ先を突きつける。
本当は、心臓が口から飛び出しそうなくらい怖い。足だって震えている。
けれど、涙目で私を見つめる少女の前で、無様な真似はできない。
「優れた武道家を前にして、素人は相手になりませんよ。……実力差なんて、元剣道部の貴方たちが一番よく知っているはずだ」
精一杯の虚勢を張り、凛とした瞳で睨み返す。
先輩二人は忌々しげに舌打ちをすると、捨て台詞を残して逃げるように去っていった。
――助かった。
大きく息を吐き出し、へたり込んでいた少女に向き直る。
大きな瞳。小さな顔。
フリルたっぷりのメイド服が驚くほど似合っていて、まるで人形のようだ。
こんなに可愛い子、見たことがない。
「大丈夫?」
手を差し伸べると、少女は頬を赤く染めて、小さく頷いた。
「あ、ありが、とう……」
彼女が私の手を取る。
小さくて、すべすべな手。マメだらけで硬い私の手とは大違いだ。
立ち上がると、身長差が際立つ。彼女の頭は、私の胸元くらいしかない。
「あ、あの……」
「ごめん、怪我はない? あの二人、うちの学校でも有名な不良でさ。本当にごめんね」
「ううん。貴方が謝ることなんてないよ。……助けてくれて、嬉しかった」
上目遣いでそう言われて、今度は私が赤面する番だった。
破壊力が凄まじい。同性の私でもドキッとするのだから、男子が見たらイチコロだろう。
その時だった。
ヒュオッ、とビルの谷間から強い風が吹き抜けた。
「あっ」
ふわりと舞い上がる、メイド服のスカート。
反射的に目を閉じるべきだった。けれど、あまりの光景に視線が釘付けになる。
そこに見えたのは、白いフリルに包まれた――愛らしいドロワーズ。
「え」
「あ」
スカートが戻り、気まずい沈黙が流れる。
やってしまった。女の子が女の子のパンツを見るのと、男装した「男子(仮)」が見てしまうのとでは、意味が全く違う。
今の私は、彼女にとって「男の子」なのだ。
「ご、ごめん! わざとじゃなくて!」
「い、いえ! あの、お見苦しいものを……」
「み、見苦しいだなんて全然! むしろ可愛かった! いや、そうじゃなくて!」
パニックだ。
なにを口走っているんだ私は。変態か。
「そ、その、ドロワーズ……すごく似合ってます! こだわりを感じるというか!」 「あ、ありがとうございます……?」
彼女はきょとんとして、それから少しだけ嬉しそうにはにかんだ。
よかった、引かれてはいない……のか?
そこで、ポケットのスマホが震えた。
ハッとして画面を見ると、出番の時間が迫っている。
「やば、もうこんな時間だ。ごめんね、もう行かなきゃ。君も、早く中に戻るんだよ」
「ちょ、ちょっと待って!」
背を向けた私を、彼女が呼び止めた。
振り返ると、彼女はもじもじと指を絡ませて、上目遣いで私を見ている。
「あ、あの、お礼を……そのぉ……」
「お礼なんていいよ。……あ、でも」
私はポケットからメモ帳を取り出し、裏にさらさらと自分の連絡先を書き込んだ。
それを彼女に手渡す。
「これ、僕の番号。またあいつらに絡まれたら、すぐにかけて。飛んでくるから」
「え……」
「それじゃ!」
呆気にとられる彼女に手を振り、私は駆け出した。
心臓が、早鐘を打っている。
不良への恐怖か、それとも――あんなに可愛い子と話せた興奮か。
今の私には、まだ分からなかった。
これが初恋の始まりだなんて、思いもしなかったから。
私に訪れた春は、春一番のように突然で、激しくて。
そして――少しだけ、複雑な味がした。
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