第4話:連鎖の対価

保健室の冷たい空気の中で、消毒液の匂いが鼻をつく。 健太の手の甲に巻かれた真っ白な包帯に、じわりと赤い血が滲んでいた。


「……ごめん。本当に、ごめん」 私はそれしか言えなかった。パイプ椅子に座る私の膝は、情けないほど震えている。


「謝んなよ、ゆみ。お前がガラスを割ったわけじゃないだろ」 健太は努めて明るく振る舞っていたが、その声は微かに震えていた。 看護教諭が不在の保健室で、梓は無言のままタブレットの画面をスクロールし続けている。


「……見つけた。掲示板の過去ログ、倉庫の奥の方にひっそり残ってたスレッド」 梓の声が、静かな部屋に響く。


「『赤ノロシを止める方法について』……?」 私が覗き込むと、そこには数年前の書き込みがあった。


  【054:名無しさん】 止める方法はただ一つ。信号無視で得た『利益』以上の『不利益』を支払うことだ。 無視して短縮した『時間』。無視して守った『プライド』。 それらを遥かに凌駕する『代償』を捧げない限り、バトンは止まらない。


「利益以上の、不利益……?」 健太が怪訝そうに眉をひそめる。


「あの時、ゆみはただの好奇心で信号を無視した。失ったのは数秒の待ち時間だけ。でも、その『数秒』を盗んだ代償として、呪いは私たちの『日常』を奪おうとしてる……ってこと?」


梓の推測は、あまりにも残酷で筋が通っていた。 私たちが得た「検証のワクワク感」や「ちょっとしたスリル」に対して、呪いが要求している対価が釣り合っていないのだ。だから、足りない分を不幸という形で徴収し続けている。


その時、私のポケットの中でスマホが震えた。 ビクッとして取り出すと、画面には『母さん』の文字。


「……もしもし、お母さん?」 嫌な予感が、心臓を直接掴んだような気がした。


『ゆみ?……落ち着いて聞いてね。お兄ちゃんが、さっきバイト先で倒れて、病院に運ばれたの』


「えっ……お兄ちゃんが!? 何で!?」


『それが……調理中に、何もないところで急に滑って、揚げ物用の油を右腕に……。かなりひどい火傷だって……』


受話器の向こうで、母のすすり泣く声が聞こえる。 私の頭の中が真っ白になった。 兄は大学受験を控えていて、予備校代を稼ぐために必死にバイトをしていた。右腕に大火傷なんて、勉強はどうなるの? 生活は?


「……ゆみ? 顔色が真っ青だよ」 健太が心配そうに身を乗り出す。


私は力なくスマホを落とした。 私の家族。私の兄。呪いのバトンは、私の知らないところで、私の最も大切な人たちへも伸びていた。


「梓……、これって、私が『代償』を払えば止まるの?」 私は虚ろな目で梓を見た。


「掲示板には、こうも書いてある……」 梓は言葉を濁しながら、最後の行を読み上げた。


  【056:名無しさん】 一番確実なのは、信号を無視した本人が、その交差点で『適切な罰』を受けることだ。


適切な、罰。 それはつまり、あの交差点で、私に何か――命に関わるようなことが起きなければいけない、ということなのだろうか。


「ふざけんな!」 健太が叫び、机を叩いた。 「そんなの、死ねって言ってるようなもんじゃねえか! 呪いかなんだか知らないが、そんなの認めないぞ!」


健太の怒声が保健室に響き渡る。 だが、窓の外を見ると、校門前の信号機がまた、ゆっくりと点滅を始めていた。


今度は赤ではない。 不気味に濁った「黄色」。 まるで、「早く準備をしろ」と、私たちを急かしているかのように。


――逃げ場は、もうどこにもない。 私たちは、呪いという名の強制的な『集金人』に、追い詰められようとしていた。

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