第3話 生成条件
これまでの体験は、ここまでだった。
自分が話していないタイミングで、自分の声が、しかもはっきりした言葉として聞こえてくる。
それだけで、人は十分に正気を疑う。
逃げ出したくなる理由としては、申し分ない。
だが、榊は違った。
非常階段の踊り場で立ち止まり、立花が立っていた位置に、ぴたりと自分の足を合わせる。
「……この辺りだな」
そう言って、右手を伸ばし、壁に触れた。
「こんな感じだったんだよな?」
「はい。高さも、そのくらいです」
榊は掌を押し当てたまま、数秒、じっと待つ。
階段は沈黙を保ったままだ。
空調の音もない。
反響もない。
ただの、地下階段。
「……起きないな」
榊は壁から手を離し、顎に指を当てた。
「何もないところから声が生まれる——
要するに“生成”だと仮定すると……」
その言葉に、立花は小さく身構えた。
「立花君は、自分の声を生成させる条件を満たしていた。だが私は、まだ満たしていない」
榊はそう言って、階段全体を見回した。
「位置だけじゃない。
触り方だけでもない。
体格差、体温、呼吸……あるいは——」
そこで、ふと榊の動きが止まる。
「……そういえば」
独り言のように呟いた。
「三日前以前は、どうだったんだろうな」
立花は眉をひそめる。
「三日前……ですか?」
「ああ。管理会社が私に相談する前だ」
榊は階段の踊り場を見回しながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「現象は、突然“始まった”のか。
それとも、誰かが気づかなかっただけで、
前から起きていたのか」
壁を見つめながら、続ける。
「もし後者なら、この階段は、君が来る前から
“何か”を溜め込んでいた可能性がある」
立花は、背中にひやりとしたものを感じた。
「……じゃあ、僕が原因じゃない可能性も?」
「十分ある」
榊は即答した。
「むしろ私は、君は“引き金”に過ぎないと見ている」
その言い方は淡々としていたが、
内容は、立花の想像を軽く超えていた。
地下三階の非常階段は、相変わらず無言だった。
だが、ここに来る前から続いていた何かがある。
その可能性が浮かんだ瞬間、
立花は初めて——
この場所が「自分の部屋よりも厄介かもしれない」と思った。
*
警備員室は、地下とは思えないほど明るかった。
蛍光灯の白い光が、年季の入った机と壁を均等に照らしている。
年長の警備員――
「いやぁ……私もここには十年くらいいるんですがね。今まで、そんな話は一度もなかったですよ」
そう言って、湯気の立つ茶を二人の前に置く。
榊は礼を言い、湯呑みに口をつけて一口すする。
「声だけでなく、妙な物音とかも……?」
「ええ。全く」
即答だった。
──違ったか。
榊の胸に、わずかな失意が滲む。
何かが“起き始めた”現象には、必ず境目がある。
最初からそうだった、という例はほとんどない。
だが、羽田の話ではそれらしい兆候は何もなかったという。
「そうですか」
短く返した榊の声は、本人が思う以上に落ちていた。
そのときだった。
「あの……」
控えめに、立花が口を挟んだ。
「地下三階だけ、新しいのは何でなんですか?」
榊がふと顔を上げる。
「立花君、何か気づいたのか?」
「いや……」
立花は頭を掻き、少し照れたように続ける。
「僕、建築情報デザインなんで。地下二階までと、三階からで、空間の作りが全然違うなって。それで、何でだろうなって思っただけです」
言われて、榊も思い出す。
確かに地下三階だけ、どこか“新しい”感触があった。
「ああ……」
羽田が頷いた。
「そこはですね、大規模な改修をしたんですよ」
「改修?」
今度は、榊が身を乗り出す。
「ええ。例の、令和最後の大地震があったでしょう。
あのとき、地下三階は構造的にかなり危なかったんです」
羽田は当時を思い返すように、少しだけ視線を落とした。
「だから、耐震補強を含めて、床も壁も、内部構造を一度見直して――全面的に改修しました」
榊は黙り込む。
元あった構造が、地震によって損傷し、
その上から“別の構造”が重ねられた。
同じ場所。だが、同じ空間ではない。
「……なるほど」
小さく呟いた榊の目が、わずかに細くなる。
「三日前じゃない。
“起点”は、もっと前だな」
立花は、その言葉の意味をまだ理解できず、
ただ榊の横顔を見つめていた。
地下三階で起きている現象は、
昨日や今日に始まったものではない。
ずっと前に――
構造が変わった、その瞬間から。
*
警備員室を出て、二人は再び地下階段へ戻った。
「改修が終わったのは一年前、ですか」
榊は歩きながら、独り言のように繰り返す。
「ええ。去年の春には全部終わってます」
羽田の言葉が、頭の中で反芻される。
一年――短くもなく、長くもない。
だが、“構造が安定するまでの時間”としては、十分すぎるほどだ。
B2からB3へ。
階段の空気が、わずかに変わる。
冷たい。
だが、湿ってはいない。
榊は立ち止まり、壁に近づいた。
「立花君」
「はい」
「右手で、さっきと同じように触ってみてくれ」
立花は息を整え、壁に手を伸ばす。
コンクリートの表面は、ひどく滑らかだった。
その瞬間――
チ、と、乾いた音が鳴った。
耳元ではない。壁の“内側”からだ。
「……来るぞ」
榊が低く言った。
次の瞬間。
──すぐに終わるさ
階段全体に、声が立ち上がった。
反響ではない。どこかから聞こえた、でもない。
空間そのものが、声の形を取ったような感覚だった。
立花は思わず後ずさる。
「先生……これ、やっぱり……」
「落ち着け」
榊は、興奮を抑えきれない様子で、壁と天井を交互に見上げていた。
「ようやく出た。しかも、完全な“生成”だ」
「生成……?」
「そうだ。再生じゃない。録音でも、残響でもない」
榊は、階段の踊り場にしゃがみ込み、床を軽く叩く。
「改修で何が起きたか、分かるか?」
立花は首を振る。
「地下三階は、地震で構造が一度“壊れかけた”。それを補強するために、異なる材質、異なる密度、異なる共振特性の構造体が、継ぎ足されるように組み合わされた」
榊は、壁に指を当てる。
「つまりな、この階段は――
一つの楽器みたいなものになった」
「楽器……?」
「しかも厄介なことに、音じゃない“揺らぎ”を拾う楽器だ」
榊は立ち上がり、立花の立っていた位置に移動する。
「人が壁に触れる。そのとき、皮膚の微細な振動、筋肉の緊張、呼吸のリズム――それらが全部、構造体に伝わる」
「でも……それで、声になるなんて……」
「普通は、ならない」
榊は即答した。
「だが、ここは違う。改修によって、局所的に“時間遅れを持つ共振構造”ができた」
榊は、指で小さな円を描く。
「入力された微細な振動が、即座に消えず、しかも“歪んだ形”で増幅される」
「歪んだ……」
「人の脳が、声として解釈できる形に、だ」
立花の背筋に、寒気が走る。
「じゃあ……あの声は……」
「君の声でもあり、君の声じゃない」
榊ははっきりと言った。
「君の身体が発した“声になる前の情報”が、この構造を通して、声という結果だけを先に作ってしまった」
沈黙。
階段には、もう何の音もしない。
「改修がトリガーになった理由も説明がつく」
榊は満足そうに息を吐いた。
「構造が安定するまでに一年。
その間に、内部応力がゆっくり偏り、
ある閾値を超えた」
榊は微笑む。
「そして――最初に“鳴った”のは、君じゃない」
立花は顔を上げた。
「動画の配信者か、あるいはもっと前に、たまたま条件を踏んだ誰かだろう」
榊は壁に軽く手を置く。
「だが、君は違う。君は“偶然鳴らした”んじゃない。この構造と、継続的に噛み合った最初の観測者だ」
立花は、壁から手を離し、自分の掌を見つめた。
幽霊ではない。誰かの意思でもない。
ただ、構造が、世界が、人の形を借りて声を作っただけ。
それが分かっても――
怖くないわけが、なかった。
(続く)
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