第2話 発声条件
本木ビルの一階。
人の出入りが絶えないロビーの奥に、地下へ続く非常階段はあった。
重たい防火扉を押し開けると、空気が変わる。
わずかに冷たく、乾いている。
立花が最初の一段に足をかける。
こつ——ん。
音が、思ったよりもはっきりと返ってきた。
「反響、ありますね」
「あるな。だが、普通だ」
榊は淡々と答え、後に続く。
一階からB1へ。
コンクリートの壁、白い塗装、天井の蛍光灯。
どこにでもある非常階段だ。
こつーん。
こつーん。
二人分の足音が、規則正しく重なる。
B1。
さらに下へ。
B2。
空気が少しだけ重くなる。
そして——B3。
立花は無意識に足を止めた。
「……何も、変わりませんね」
「そうだな」
榊は階段の踊り場に立ち、周囲を一瞥する。
壁に貼られた避難経路図。
配管が走る天井。
非常灯の緑色。
動画で見た“あの感じ”は、どこにもない。
「拍子抜けだな」
立花が言うと、榊は首を横に振った。
「むしろ、順当だ」
榊は鞄から小型のデバイスを取り出し、起動する。
掌に収まる程度の黒い筐体。
小さなディスプレイに、数値が流れ始めた。
「再現性があるなら、もっと早く問題になっている」
「じゃあ、あの動画は……」
「条件付き、ということだろう」
榊は階段を一段、強く踏み鳴らした。
どん。
低い音が、階下へ落ちていく。
立花も真似をする。
どん、どん。
二人で声を出してみる。
「聞こえますか?」
「聞こえる」
返ってくるのは、ごく普通の反響だけだった。
「……何も起きませんね」
「今はな」
榊はデバイスの画面を覗き込み、わずかに眉を動かす。
「微量だが、反応はある」
「え?」
「エネルギーの揺らぎだ。音響とも、振動とも言い切れない」
立花には、画面の数字が何を意味しているのか分からない。
だが、“ゼロではない”ということだけは伝わってきた。
「起きていない、のではない」
榊は静かに言う。
「起きる条件が、揃っていないだけだ」
階段は相変わらず、静まり返っている。
こつ、と立花が一歩動くと、
その音だけが、遅れて、壁に触れて消えた。
それ以上、何も起こらなかった。
少なくとも——
この時点では。
榊は非常階段の踊り場で立ち止まり、壁に指の関節を当てた。
コン、コン。
乾いた音が、階段の筒状の空間を上下に反射しながら消えていく。
「反響は素直だな。妙な遅れも歪みもない」
そう言って、今度はわざと足音を立てる。
コツ、コツ、コツ——。
靴底の音が、螺旋状の階段を降りていく。
立花も数段下り、手すりに触れ、壁面を目でなぞった。
コンクリート。
塗装の剥げ。
配管の影。
どこをどう見ても、ただの地下階段だ。
「……人はいませんね」
「ああ。少なくとも、我々以外はいない」
榊は短く答え、携えていた機器を一瞥した。
数値は安定している。
立花は喉を鳴らし、階段の中央に立った。
「正直、何も起きない気がしてきました」
その瞬間だった。
──すぐに終わるさ。
声が、階段全体に響いた。
反響ではない。
残響でもない。
すぐ隣で、誰かが呟いたような、近さ。
やや低く、落ち着いた——
立花自身の声だった。
「……っ」
立花の背筋が硬直する。
「いや、立花君。これは案外かかりそうだぞ」
榊が、何事もなかったように言った。その声で、立花ははっと我に返る。
「先生——僕、何も言ってません」
思わず声が上ずる。
「……僕じゃないです。今の」
榊は答えず、ゆっくりと階段を見回した。
天井。
壁。
踊り場の隅。
その表情は、怯えではなく——
期待に近いものだった。
「ほう……」
小さく、榊が笑う。
「まさか、ここまで声質がリアルだとは」
立花は思わず一歩下がった。
「せ、先生……」
「落ち着け。今のは“発話”じゃない」
榊は手帳を取り出し、ペンを走らせる。
「再生でもない。模倣だ」
視線を階段の構造へ移す。
「……やはり条件があるな。
誰が、どこに立ち、
どんな動きをしたか」
榊は、楽しそうに呟いた。
「いいぞ。
これは、ちゃんと“鳴る場所”だ」
立花は唾を飲み込み、もう一度階段を見た。
相変わらず、
何の変哲もない地下階段だった。
——それが、なおさら不気味だった。
*
「立花君」
榊の声は低く、しかし弾んでいた。
「君、今、何をしていた?声が聞こえた瞬間の行動を、出来るだけ正確に思い出してくれ」
立花は一瞬、言葉に詰まった。
「え……そ、そうですね……壁に、触りました」
「どちらの手だ?」
「み……右です」
即答ではなかった。思い出そうとして、わずかに間が空いた。
「それだけか?」
榊は食い下がる。
「他に何をした。足は?体の向きは?」
「そんな……無意識ですよ。正直、全部は覚えてません」
「構わない。無意識こそが重要だ」
榊は階段の壁を指で示した。
「では、今度は左手で触ってみよう。同じ位置、同じ高さだ。試してみてくれないか?」
立花はごくりと喉を鳴らした。
嫌な予感がした。だが、拒む理由もなかった。
ゆっくりと左手を伸ばし、先ほどと同じ場所に、掌を当てる。
——何も起きない。
空気は静まり返り、階段はただの地下構造物に戻ったままだ。
「……だめですね」
立花は、どこか拍子抜けしたように言った。
榊は即座に否定も肯定もしなかった。
「なるほど」
壁、立花の立ち位置、階段の勾配。
視線が忙しなく動く。
「利き手の可能性」
小さく呟き、手帳に書き込む。
「あるいは、触れた“瞬間”の体重移動か、無意識の呼吸だな」
榊は立花を見た。
「今のは失敗じゃない。条件が“違った”だけだ」
その言い方が、立花には妙に現実的で、逆に怖かった。
幽霊なら、気まぐれで済む。
だがこれは——
「……先生」
「何だ?」
「これ、もう一回、起きますよね」
榊は、少しだけ笑った。
「ああ。起こせる可能性が、見えてきた」
地下三階の非常階段は、
相変わらず無言だった。
だが立花には、次に“何かが起きるまでの沈黙”にしか思えなかった。
(続く)
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