第4話 声になる前

 翌日。


 榊の教授室は、いつもと変わらないはずなのに、

 立花にはどこか落ち着かない場所に見えた。


 壁に並ぶ本棚。

 机の上の無数の資料。

 モニターに映し出された、波形と数値。


「……で?」


 立花は意を決して口を開いた。


「結局、あれは何だったんですか。

 僕の脳が、勝手に声を作ったわけじゃないんですよね」


 榊は、少しだけ口角を上げた。


「いい質問だ。あれは錯覚なんかじゃない」


 椅子に腰掛け、指を一本立てる。


「人が声を出すまでには、順番がある」


 モニターに簡単な図が表示される。


「言葉を選ぶ。発声を準備する。喉や呼吸、筋肉が動く。それで、初めて空気が震える」


 榊は立花を見る。


「君が“話した”と自覚するのは、最後の段階だ」


「……はい」


「だが、本木ビルの地下三階では、その一歩手前で止まった情報が、外に出た」


 立花は眉をひそめた。


「一歩手前……」


「発声しようとして、やめた言葉。口に出さなかったが、身体はもう準備していた言葉だ」


 榊は自分の喉を軽く指で叩く。


「筋肉は動き、呼吸は変わり、皮膚もわずかに振動する」


「でも、声にはなってない……」


「普通はな」


 榊は頷く。


「だが、あの階段は違った。改修で生まれた構造が、その発声予備信号を拾ってしまった」


 立花は、思わず自分の掌を見る。


「じゃあ……僕が“話してない”と思ってたのは……」


「脳の認識としては、正しい」


 榊はきっぱりと言った。


「だが、身体はもう“話しかけていた”」


 立花は言葉を失った。


「じゃあ、どうして……僕の声だったんですか」


 榊は、今度は二本指を立てる。


「人の声は、声帯だけで決まらない。

 呼吸の癖、筋肉の緊張、無意識の口の形――

 全部、発声前から個人差がある」


 モニターに、二つの波形が並ぶ。


「構造体は、それをそのまま使った。だから、君の声質で、君のリズムで、君に似た言い回しになった」


「録画に残ったのも……」


「当然だ。外界で音として成立しているからな」


 しばらく、沈黙が落ちた。


 立花は、ようやく核心に触れる質問を口にする。


「……じゃあ、先生。どうして先生では、再現しなかったんですか」


 榊は、少し考えてから答えた。


「君と私では、条件が違う」


「条件……」


「まず、私は研究者だ」


 榊は苦笑する。


「言葉を“選ぶ前”に、理屈が割り込む。発声に行きかけた信号を、無意識の段階で止めてしまう癖がある」


「それって……」


「簡単に言えば、私は迷いすぎる」


 立花は、思わず吹き出しそうになった。


「もう一つ」


 榊は真顔に戻る。


「君は、あの時、疲れていた。就活、生活、不安――

意識と身体の境目が、少し緩んでいた」


 立花は思い当たる節があり、黙る。


「構造と噛み合うには、“出しかけて止める”が一番強い」


 榊は静かに言った。


「君は、その状態だった。私は、違った」


 立花は、深く息を吐いた。


「……じゃあ、あれは」


「幽霊じゃない」


 榊は即答した。


「ただの科学的な運動だ。条件が揃えば、また起きる」


 そして、少しだけ柔らかい声で続ける


「それと、君に頼みがある」


 榊は、不意に話題を切り替えた。


「なんですか?」


「君の分野の教授を、紹介してほしい」


 あまりに唐突な申し出だった。


「……いいですけど。どうしてですか?」


 榊は机の上の資料に視線を落としたまま答える。


「今、話した通りだ。条件が揃えば、あの現象はまた起きる」


 立花は、息をのんだ。


「それでは、管理会社は困る。“たまたま一度起きた怪異”では済まされないからな」


 榊はゆっくり顔を上げる。


「あの現象を二度と起こさないためには、構造体そのものに手を入れる必要がある」


「でも、それは……」


「私は建築家ではない」


 榊はきっぱりと言った。


「理論は立てられても、どこを、どう変えれば“鳴らなくなるか”までは判断できない」


 そして、立花を見る。


「だから――」


 一拍、間を置いてから、言った。


「すまない。学生の意見ではなく、専門家の知識が必要なんだ」


 立花は、思わず背筋を伸ばした。


 自分が“当事者”であるという感覚と、この出来事が、もう個人の体験談ではなくなったという現実が、同時に胸に落ちてくる。


「……分かりました」


 立花は、静かに頷いた。


「僕の研究室の教授に、話を通してみます」


 榊は、ほっとしたように微笑んだ。


「助かる。これで、ようやく“原因を知ったあと”の段階に進める」


 その言葉に、立花は小さな違和感を覚えた。


 ――原因を知った“あと”。


 では、この建物は、どんな形に変えられようとしているのだろうか。


(終わり)


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【未名現象観測録】──B3 地下階段 長谷部慶三 @bookleader

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