【未名現象観測録】──B3 地下階段
長谷部慶三
第1話 噂の階段
最初に火が付いたのは、深夜の短い投稿だった。
《⚪︎⚪︎ビルのB3非常階段、やばい》
《幽霊いる》
それだけの文章と、十数秒の動画。
地下に続くコンクリートの階段。蛍光灯は半分ほどしか点いておらず、影が妙に濃い。画面は手持ちで揺れ、撮影者の息がマイクにかかっている。
「……ほら、誰もいないですよね」
男の声だった。若い。ふざけているようで、どこか落ち着かない。
「でもさっき、確かに──」
その瞬間、動画の音声が一瞬、歪む。
――大丈夫だ。
はっきりとした声だった。
撮影者と同じ声質。
同じ抑揚。
だが、男はそのとき、口を開いていない。
「……え?」
画面がぶれ、階段の踊り場を映したところで動画は終わる。
コメント欄はすぐに埋まった。
《今の声なに?》
《編集?》
《同じ声じゃね?》
《普通に怖いんだが》
翌朝には、同じ場所で撮られたという動画がいくつも上がり始めていた。
どれも似た構図。
どれも、途中で声が入る。
――呼びかけるような、自分自身の声が。
*
専攻学科の午後の講義を終えた立花彰は、重たい鞄を肩にかけたまま、廊下のベンチに腰を下ろしていた。
建築情報デザイン。
プログラムと意匠、シミュレーションと現実を行き来する授業は嫌いではない。だが、今日は頭がうまく切り替わらなかった。
スマートフォンを開く。
就職情報サイト。企業説明会の一覧。エントリーシートの下書き。
自己PR。志望動機。
画面の文字を眺めているだけで、肩が凝る。
「……疲れた」
誰に聞かせるでもなく呟き、立花は立ち上がった。
気がつけば、足は理学棟の方へ向いていた。
榊教授の研究室の前で、一瞬だけ迷う。
だがノックは、思ったより早く終わった。
「どうぞ」
ドアを開けると、榊はモニターに向かったまま、視線だけをこちらに寄こした。
「立花君、私のところに来るのはいいが」
軽く眼鏡を押し上げる。
「ちゃんと就活はしているんだろうね」
「していますよ」
立花は苦笑し、鞄を足元に置いた。
「でも、正直疲れました。先生、前に息抜きしたければ歓迎するって──」
「確かにそう言ったな」
榊は椅子を回し、ようやく立花の方を向いた。
その目に、いつもの研究者の光が戻りつつあるのを、立花は見逃さなかった。
「それで、今は何を調べてるんですか?」
立花がそう尋ねると、榊はマウスを軽く動かし、モニターの画面をこちらに向けた。
「君、この話、知ってるか?」
表示されていたのは、見覚えのある画面だった。
暗い階段、揺れる映像、コメント欄に流れる軽口と不安の入り混じった文字列。
「ああ……これ」
立花は思わず身を乗り出す。
「このビルのB3非常階段、やばい、ってやつですよね。名前は出してないですけど、本木ビルのことだ」
動画投稿サイトで、昨夜から妙に回っている。
立花も講義の合間に、つい最後まで見てしまった一人だった。
「動画、何本か上がってましたよ。撮ってる人の声が途中で入るやつ。……いや、入るっていうか」
言葉を探す。
「自分の声、ですよね。あれ」
「そうだ」
榊は短く頷いた。
「で?」
立花は首を傾げる。
「何で、先生がそれを調べてるんですか? バズってる動画を眺める趣味があったとは思えないんですけど」
榊は一瞬、口元を緩めた。
「失礼だな」
そう言いながらも否定はせず、再生ボタンを押す。
――大丈夫だ。
スピーカーから流れる声は、やはり撮影者本人のものだった。
タイミングも、距離感も、おかしい。
「このビルな」
榊は音量を落とし、淡々と言う。
「三日前から、管理会社経由で相談が来ている。警備員が一人、配置換えを願い出た」
「理由は?」
「『自分の声が、先に聞こえる』そうだ」
立花は言葉を失った。
動画で見るのと、現実の話として聞くのとでは、重みが違う。
「偶然、悪ふざけ、編集。そう片付けるには、数が多い」
榊はモニターに映る波形データを指し示す。
「それに、これは少し……」
一拍、間を置く。
「ポルターガイストより質が悪い」
立花は、背筋がわずかに冷えるのを感じた。
息抜きのつもりで来たはずの教授室が、いつの間にか“現場の入口”になっている。
「……先生」
恐る恐る尋ねる。
「まさか、これも」
「その、まさかだ」
榊は静かに言った。
「だから君が来たのは、ちょうどいい」
立花は、自分が“休憩”のつもりで座っていることを、完全に忘れていた。
*
またしても、立花彰は榊教授の車の助手席に座っていた。
シートに身を沈めた瞬間、車内に軽快なリズムが流れ出す。
「……先生、またこの曲ですか」
立花は半ば呆れたように言った。
「毎回これさ」
榊はハンドルを握ったまま、当然だと言わんばかりに答える。
「この曲以上に、うってつけなのがあるか?」
レイ・パーカーJr.の『ゴーストバスターズ』。
明るく、能天気で、しかし歌詞の内容だけを見れば完全に怪異退治のテーマだ。
「気分が出すぎです」
「気分は大事だ。特に、相手が正体不明のときはな」
榊はアクセルを踏み込み、車は大学構内を抜けて幹線道路へ出る。
立花は窓の外を見ながら、しばらく黙っていたが、やがて我慢できなくなった。
「先生」
「ん?」
「今回の件……正体は、何だと思いますか」
榊は即答しなかった。
曲のサビが一巡してから、ようやく口を開く。
「可能性はいくつかある」
「例えば?」
「音響、構造、心理。あとは——」
榊は一瞬だけ、言葉を選ぶ。
「人間の自己認識のズレ」
立花は眉をひそめた。
「……ますます分かりません」
「だろうな」
榊は笑った。
「だが、現地に行かないことには何とも言えん。動画や音声データは、あくまで二次情報だ」
「じゃあ、今はまだ……」
「仮説の段階だ。しかもどれも、決め手に欠ける」
ゴーストバスターズのテーマがフェードアウトする。
代わりに、車内にエンジン音とロードノイズだけが残った。
やがて、前方に高層ビルの影が見えてくる。
夕暮れの中、ガラス張りの外壁が鈍く光っていた。
「本木ビルだ」
榊が短く言う。
立花は喉を鳴らし、無意識にシートベルトを握りしめた。
地下へ続く入口は、思った以上に普通だった。
ただのビル。
ただの非常階段。
それでも、あの動画を思い出さずにはいられない。
「……本当に、ここなんですね」
「ああ」
榊は車を止め、エンジンを切る。
「さあ、行こう。噂の“反響室”だ」
立花は深く息を吸い、ドアノブに手をかけた。
第一歩を踏み出した先が、どこに繋がっているのか——
その時点では、まだ誰にも分からなかった。
(続く)
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