棘薔薇《ロゼシュタッヘル》の弾丸 ― Rosestachel’s Bullet ―
星夜燈凛-Seiya Akari-
【紅薔薇】リシェル・クラウゼ
1.
「咆えろ!
乾いた反動が腕に返る。
屋上から見下ろせば、視界のすべてが敵だった。
「向日葵!援護!」
「はいはーい!売られた喧嘩はかいますよぉ!
焼き尽くせ!
向日葵は、自分の身体より三倍は大きいそれを、何でもないことのように肩へ担ぐ。
次の瞬間、視界が揺れた。
衝撃。
熱。
炎。
敵も建物も区別なく、獄炎に飲み込まれる。
叫び声が、空気に散った。
「……向日葵。」
空気が、ピリッと張り詰める。
向日葵は、そんなリシェルの様子など気にもとめず、
遠くを見渡すようにして、燃え上がる炎を眺めた。
「おぉ!よーく燃えてますねぇ!」
「……向日葵。」
少しだけ、リシェルの声に苛立ちが混じる。
向日葵は振り返り、目を輝かせた。
「紅薔薇様!僕、ナイスアシストでしょ?」
紅薔薇は、盛大なため息をつく。
「大事な証拠が全て消えたわ……。
向日葵、帰ったらグラウンド五十周と、反省文百枚。
明日の昼までによ!」
「え!? そんなぁ!
勘弁してくださいよぉ!紅薔薇様!」
「上官に文句を言わない。
返事は?」
向日葵は、背筋を伸ばす。
「
炎は、尚も赤々と燃えていた。
2.
基地は、いつにも増して静かだった。
無駄な装飾などない、無機質な空間。
ここは戦場から戻った者を慰める場所ではない。
次の命令を待つだけの場所だ。
この基地に所属する特殊部隊――
全員が女性で構成され、隊員には花の名を冠したコードネームが与えられる。
彼女たちは、表の記録に残らない。
作戦は成功のみが許され、失敗は存在しないものとして処理される。
敵からは「殺戮の花」と囁かれ、味方から本当の名前を呼ばれることはない。
名は、最初に捨てるものだ。
彼女のコードネーム『紅薔薇』は、その中でも最も優秀とされる者に与えられる称号だった。
それは名前ではなく、役割の名だ。
「失礼します。長官。」
静かなノックの後、リシェルが入室する。
「戻ったか、紅薔薇。」
長官は、読みふけっていた作戦資料から目を離し、リシェルへと視線を向けた。
「報告は聞いている。
敵対組織から奇襲を受けるとは……災難だったな。」
顔色は一切変わらない。
しかし、声音はあくまで穏やかだった。
「私の不徳の致すところでございます。」
膝をつき、目を伏せるリシェルに対し、
長官は口元にわずかな微笑みを浮かべ、労いの言葉をかける。
「いや、いい。
結果的に相手の戦力は削れたのだから。」
「恐れ入ります。」
リシェルは静かに立ち上がり、
長官の机の前へと進み出た。
「長官、私をお呼びと伺いましたが。」
長官は答えず、
先ほどまで握っていた資料を一束、無造作に投げる。
「あぁ、お前に依頼だ。
お前もよく知る人物だろう。」
紅薔薇の視線が、紙の上に落ちる。
「アダム・ヴァーグナーの暗殺だ。」
3.
リシェルの私室は、基地の他の区画と同じく簡素だった。
必要最低限の調度品。私物らしい私物はほとんどない。
まるで、明日にでもここから居なくなるかのような簡素さだ。
向日葵は、荷造りをするリシェルの背中を見つめていた。
彼女は、小ぶりのボストンバッグに淡々と荷物を詰めていく。
その動きに一切の迷いはなかった。
「紅薔薇様。本当に行かれるんですか?」
「任務ですもの。」
即答だった。
揺らぎのない声が、かえって向日葵の胸を締めつける。
「でも……アダムは紅薔薇様の……。」
「それは過去の話よ。蒸し返さないで。」
リシェルは、向日葵に鋭い一瞥を送った。
感情を切り離すことに、慣れすぎてしまったようだ。
「そうはいっても……。」
食い下がる向日葵に、リシェルはピタリと手を止める。
そして向き直り、真っ直ぐにその目を見据えた。
「向日葵、甘えた考えは捨てなさい。
ここは戦場よ。」
向日葵が、びくりと肩をすくめる。
「敵をやらなければ、こちらがやられる。
たとえそれが、家族だろうと……恋人だろうと。」
その言葉は、
自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「僕が……僕が行きます。」
向日葵は、両手の拳を力いっぱい握りしめた。
「あなたの手を煩わせるまでもない。
すぐに解決してみせます!
だから、行かないでください。」
声が震れる。
向日葵は唇を噛みしめ、視線を落とした。
「僕は……あなたに、
一生後悔するような業を背負って欲しくないんです。」
吐き捨てるように言い、嗚咽を漏らす。
リシェルは歩み寄り、
そっとその頭に手を置いた。
「よしよし、泣かないで。
大丈夫よ、私は強いから。うまくやるわ。」
その仕草は、上官のものではなかった。
――紅薔薇様。
彼の名を嬉しそうに呼び、笑っていたあなたの顔が、昨日のことのように浮かびます。
紅薔薇様は今も……アダムを愛しておられるのでしょう?
向日葵は、胸いっぱいに押し寄せる感情を、
無理やり飲み込んだ。
「……お気をつけていってらっしゃいませ。」
「ありがとう、向日葵。」
その一言だけで、慰めには十分だった。
リシェルは向日葵に笑いかけると、
私室を後にする。
向日葵から見れば、
その笑顔が、余計に痛々しかった。
4.
バーの照明は落ち着いていた。
低い天井の下、葉巻の甘く重たい匂いが漂い、
グラスの触れ合う音に紛れて、控えめなジャズが流れている。
外の喧騒は扉の向こうに切り離され、
ここには、少し背伸びをした大人だけが集まっていた。
グラス越しに、琥珀色の酒が揺れる。
「珍しいな、君から誘ってくれるなんて。」
アダムは軽く肩をすくめ、楽しそうに笑った。
「しかも、ケルンでもなかなか上等な店じゃないか。
明日は隕石でも降ってきそうだ。」
「ふふ、笑えない冗談ね。
最近はどう? うまくやってるの?」
「何とかね。」
グラスを傾けながら、アダムは視線を遠くに置いた。
「裏稼業なんてやってると、常に危険にさらされる。
時々、思うことがあるんだ。
命をすり減らして生きるくらいなら、所帯を持って、
どこかの片田舎でパンでも焼いていたいってね。」
アダムは一拍置き、声を落とす。
「もちろん、素敵な女性と、ね?」
気づけば、アダムの右手がリシェルの手に重なっていた。
リシェルは、くすりと笑いながら、その手を軽く払いのける。
「あなたの焼くパンは最悪だわ。
口はうまいのだから、政治家にでもなったら?」
軽く流されたのが気に触ったのか、
アダムは不機嫌そうに頬杖をついた。
「あいつらは、夢物語を騙る自己愛主義者だ。
そんなものには、成り下がりたくないさ。」
嘲るように笑い、肩をすくめる。
「あはは! このワインより辛口ね。」
一瞬、視線が交わる。
どちらともなく、笑いがこぼれた。
街のネオンが、
優しく店の窓辺を彩っていた。
5.
店内の照明はすでに落ちていた。
残ったのは、カウンターの端に灯る非常灯と、酒と葉巻が混じった、少し重たい匂いだけだ。
アダムはカウンターに突っ伏し、静かな寝息を立てている。
リシェルはその背中を見つめ、喉の奥で息を詰まらせた。
「……はぁ」
吐き出した息は震え、思ったよりも大きく、静まり返った店内に落ちる。
引き金にかけた指が、言うことをきかない。
銃身が、かすかに震えた。
「銃口が震えてるぞ、リシェル。」
低い声だった。
眠っているはずの男の声とは思えないほど、はっきりしている。
「……っ! あなた、眠ってなかったの?」
リシェルの指が、わずかに強ばる。
「その薬、誰が作ったと思ってるんだ。」
「ははは……そうだったわね。
耐性くらい、あるわよね。」
乾いた笑いが、喉の奥で引っかかる。
「誰の差し金だ?」
アダムは振り返らずに言った。
その問に、返事はなかった。
「まぁ、さしずめ飼いならせない獣を嫌う、上層部の仕業だろう。」
二人の間に、沈黙が走る。
「……アダム、逃げて。」
声が、かすれる。
「何から? 組織? この状況?」
ゆっくりと、こちらを見た。
「それとも、君から?」
リシェルの瞳を覗く彼は、酷く穏やかだ。
「偽装パスポートも、逃走経路も、すべて用意してあるわ。」
リシェルは、荷を詰めた小ぶりのボストンバッグを差し出し、視線を背ける。
「十秒だけ……
十秒だけ、このお酒に酔わされてあげる。
その隙に消えて。」
必死に言葉を重ねるリシェルを、アダムは静かに見つめていた。
「いつか……こんな日が来ると思っていた。」
その声には、恐怖も後悔もなかった。
「こんな裏社会に身を置いてるんだ。
敵対組織に恨まれないはずはないし、今日食べた料理が必ず安全とは限らない。
死ぬ覚悟は、とっくの昔にできてる。」
アダムは、わずかに笑う。
「俺は逃げないよ、リシェル。」
「アダム!」
「そして、もしこんな日が来るなら、君に殺されたいと思っていた。」
その言葉に、リシェルの呼吸が止まる。
「他の誰でもなく、
紅薔薇リシェル・クラウゼ……君にだ。」
名前を呼ばれるたび、引き金が重くなる。
「なにも迷うことはない。
さぁ、やれ。」
「アダム! どうして……どうしてあなたは、私の言うことを一度も聞いてくれないの?」
声が、崩れる。
「あなたはいつもそうだった。
人の気も知らないで、一方的にすべてを決めてしまう。
私の願いなんて、まるで最初からなかったみたいだわ。」
「君だって……!」
アダムの声も、初めて荒れた。
視線を逸らし、自分を落ち着けるように息を吐く。
「頑固なのはお互い様だよ。」
視線を逸らしたまま、淡々と言葉を続ける。
「俺が死んでないと分かった日には、君の立場が危うくなる。
偽の死体を用意したって、いつかは調べがつく。
現代医学をなめないでもらいたいよ。」
アダムの視線が、リシェルを射抜く。
グラスの中で、溶けだしたウィスキーの氷がカランと鳴った。
「私は強いわ。」
リシェルは一歩も引かず、アダムを睨み返した。
「その時は、組織ごと壊滅させてやるわよ。」
「おー、怖い、怖い。」
アダムは肩をすくめる。
「でも……そんなかっこ悪い守られ方するくらいなら、死んだほうがましだ。」
先程のおどけた表情から一転し、
アダムの顔から感情が消えた。
「アダム……」
アダムは、そっと立ち上がる。
「俺は、愛する人を守り、念願を叶えて死ぬ。
名誉の死だ。」
彼は、まっすぐにリシェルを見た。
「さぁ、引き金を引け。
紅薔薇、リシェル・クラウゼ。」
その手が、優しく彼女の手に重なる。
「ふっ……はっ……はははは……。」
笑っているのに、喉が詰まる。
「あなたなんか嫌いよ。」
リシェルの目に、涙が浮かぶ。
「ねぇ、お願い……
引き金にかけられた、この手を放して。」
「最後くらい、甘い言葉で見送ってくれたっていいだろう。」
アダムは、少し残念そうに笑ってみせた。
「一生恨んでくれて構わない。」
リシェルは、拒むように首を横に振る。
アダムが、穏やかな笑みを浮かべた。
「先に地獄で待ってるよ。
引き金が引かれた。
短い反動。
銃声が、静まり返ったバーに響く。
「……愛してる……」
血を吐きながら、それだけを最後に言い残し、
アダムは静かに事切れた。
「あっ……あぁっ……あぁーーーーーーーー!」
悲鳴が、遅れて胸を引き裂いた。
――女は棘があるから美しい、なんて言うけれど。
今日は、棘に生まれたことを、心から恨みたくなった。
そんな日だった。
ケルンの街に、冷たい雨が降る。
無慈悲な雷鳴が、リシェルの慟哭をかき消した。
棘薔薇《ロゼシュタッヘル》の弾丸 ― Rosestachel’s Bullet ― 星夜燈凛-Seiya Akari- @Seiyalamp
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