沈黙は喋るより伝わる

休日の図書館は、音が薄い。

人はいるのに、誰もが存在を小さくしている。


萩野は窓際の長机に座り、本を開いていた。家では集中できないとき、ここに来る。誰にも話しかけられず、ただ文字だけに没頭できる場所。


しばらくして、隣の椅子が静かに引かれた。


音はほとんどしなかった。

それでも、空気が少しだけ変わる。


顔を上げると、佐久間がいた。

私服姿で、当然のように隣に座っている。


目が合う。

佐久間は何も言わず、軽く会釈するだけだった。


そのまま本を開く。

話しかけてこない。

視線も、すぐにページへ落ちる。


読んでいる。


そう思い、萩野も本に戻った。


佐久間は長い足を組み、椅子に身を預けて優雅に本を読んでいる。ページをめくる指の動きは、静かで一定だった。


なのに、気配がある。


読書に集中しようとすると、時々、視線が重なる感覚がした。顔を上げなくてもわかる。視線が伸びて、また引っ込む。


確認しない。

気にしない。


そう言い聞かせて、文字を追う。


内容は理解できる。

集中も、できている。


それでも、どこか浅い。


邪魔はされていない。

不快でもない。


むしろ、佐久間は静かで、配慮があるように見えた。


だからこそ、違和感が消えない。


ページをめくったところで、ふっと集中が切れた。

ほんの一瞬、隣を見る。


佐久間は、こちらを見ていた。


驚いた様子はない。

ずっと見ていたわけでもない。


ただ、萩野が顔を上げた、そのタイミングに、目が合った。


佐久間は何も言わず、ポケットから出した物を

そっと机の上に置いた。


「これ、あげる」


小さな声。


置かれたのは、一口サイズのチョコレート。

萩野が、よく選ぶ種類だった。


どうして、知っているんだろう。


疑問が浮かぶ。

けれど、問いかける言葉は出てこない。


先輩はもう本に戻っている。

それ以上、何もしてこない。


断る理由も、突き返す勇気もなく、萩野はチョコを手に取った。


包みを開く音が響かないよう、慎重に。

口に入れると、甘さが広がる。


落ち着く。


集中が、少し戻る。


隣では、佐久間がページをめくる。

肘をついたまま、たまに視線だけをこちらに向ける。


笑わない。

話しかけない。


ただ、いる。


時間が過ぎる。


章を読み終えたところで、また顔を上げてしまった。


目が合う。


佐久間は、穏やかな目をしていた。

それが、怖かった。


何もされていないのに、

一人の時間が、誰かに触れられている。


萩野は本を閉じた。

まだ、帰るつもりはなかったのに。


立ち上がると、佐久間は姿勢を変えただけで、席を立たない。


何も言われない。

引き留められない。


背中に視線を感じながら、席を離れる。


出口で足を止め、深く息を吸う。


不快じゃなかった。


それが、一番おかしい。


静かな図書館で、

邪魔も会話もなかったはずなのに。


自分の好みも、集中が切れる瞬間も、

すでに知られている。


次にここへ来るとき、

「一人でいる」という前提を、

もう同じようには持てない。


そう思いながら、萩野は図書館を後にした。

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