そして捕まった
放課後。
萩野は、少しだけ佐久間との距離を取ろうと考えた。
いつもの中庭のベンチや廊下で、ばったり会うのが、少し怖かったからだ。
佐久間の視線が、自分の行動すべてを掌握しているように感じる。
だから今日は――まだ佐久間に見つかっていない場所で、本を開くことにした。
図書室の奥。
普段誰も近づかない、窓際の席。
静かに歩きながら、周囲に気配を消す。
ページをめくる指先に力を込め、呼吸を整える。
心臓の高鳴りを抑えつつ、頭の片隅には常に、先輩に「また見つかるのではないか」という不安があった。
本に視線を落とすと、わずかに安心できる。
この場所なら――と、萩野は心の中で繰り返す。
キンコン。カーンコーン……。
休憩時間が終わり、教室に戻ろうと廊下を歩き出す。
背中に、夏の日差しがじりじりと熱を帯び、汗が首筋に貼りつく。
その時、____
角を曲がった瞬間、目の前に佐久間が立っていた。
「……あ」
思わず息を呑む。
佐久間は、にこりと笑った。
優しく、自然で、けれどどこか含みのある笑顔。
「たまには、一人の時間も欲しいよね」
その声に、胸の奥がひゅんと鳴る。
足が少し止まり、呼吸が荒くなる。
心臓の音が耳に響き、頭の中で蝉の声が反響する。廊下のざわめきは遠く、世界が少し歪んで見えた。
萩野は「…はい」と、何でもないように返事をするしかなかった。
緊張で声がうまく出ず、思考も停止する。
逃げる余地なんて、最初からない。
その恐怖に、自然と体が硬直する。
でも同時に、抗おうとしても、言葉も気持ちも佐久間に届かないことを知っていた。
〇
体育の授業。
校庭に出ると、日差しは容赦なく肌を焼き、蝉の声が耳にまとわりつくようにうるさい。
全身汗だくになりながら、走り終えたばかりの萩野は、呼吸を整えようと立ち止まる。
ランニングしながら、頭の中に疑問が浮かぶ。
”佐久間は、一体、自分に何を求めているのだろう”
問いは答えを持たない。
ただ、視界の片隅に映る、校舎の二階。
ふと目を上げた瞬間、視線が止まった。
見ている。
佐久間が、校舎の窓からこっちを見ていた。
距離は遠いはずなのに、視線が胸にずんと響く。
息が詰まる。
逃げることはできない。
周りの生徒はまったく気にしていない。
なのに、逃げられない。
目が離せなくなる自分を、萩野ははっきり感じた。
胸の奥で鼓動が早まり、汗で肌がべたつき、蝉の声が頭の中で反響する。
でも、怖い。
佐久間が見ているという事実だけで、背筋がぞくりとする。
逃げられない恐怖と、どうしても目が離せない自分への戦慄。
その両方が、同時に襲ってくる。
夏の陽光で輪郭が際立つ先輩の笑顔。
口元に指先をあてて「シーッ」とする仕草。
いつもの軽い笑顔なのに、異様な美しさが胸を刺す。
どうして美しいのに、こんなに恐ろしいのだろう。
――目の前の存在が、日常の世界とずれている。
汗でぐしょりと濡れたシャツが肌に貼りつく感覚さえ、佐久間の視線の圧にかき消されるようだった。
走り終え、足を止めたまま、萩野は逃げられないことを悟る。
視線を逸らそうとしても、無意識に先輩の姿を追ってしまう。
心の奥底で、恐怖と引きつけられる気持ちが同居する。
戦慄しながら、息を整えようとする。
しかし、何度深呼吸しても、胸のざわめきは収まらない。
授業が終わり、教室に戻る途中、視界に何かが入った。
黒板の向こう、教室の中。
佐久間がいる。
窓越しではない。
教室の中で、こちらを見ていた。
目が合うと、佐久間は軽く笑う。
目線は穏やかで、優しく、けれど含みがある。
心臓が、ヒュンと鳴る。
逃げられない恐怖。
そして、どうしても目が離せない自分。
両方が同時に襲う中で、夏の陽光と蝉の声が日常を狂わせる。
心臓は早鐘のまま、足は自然に止まり、視線は佐久間から離れなかった。
その日、萩野ははっきり悟った。
佐久間は、自分が一人になる瞬間だけを、正確に狙ってくる。――そして、自分はもう、その視線から逃れられない。
校舎のざわめきの中、
心臓の鼓動とジリジリと鳴く、蝉の声に支配されながら、
名前もない
――――この関係に、萩野は捕まった。
fin
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