それは偶然なのか
放課後。
萩野は図書室へ向かっていた。
特別な理由はない。
ただ、人が少なくて静かな場所が好きだった。
昼休みの中庭と同じで、誰にも邪魔されずに呼吸ができる。
図書室の扉を開けると、冷えた空気と紙の匂いが広がる。
この時間帯は利用者もまばらで、足音がやけに大きく響いた。
目当ての棚の前で、萩野は立ち止まる。
読みたい本が、すでに誰かの手にあった。
表紙の色。
背表紙の擦れ具合。
間違いない。
立っていたのは、佐久間先輩だった。
「あれ」
「よく会うね」
昨日と同じ、軽い口調。
本当に、たまたま出会っただけのような顔。
萩野は一瞬、言葉に詰まる。
「……そう、ですね」
佐久間は本を閉じ、指で背表紙をなぞる。
「これ、好き?」
萩野がよく読むジャンル。
迷う理由はなかったのに、少しだけ間が空いた。
「……はい」
「やっぱり」
確信めいた言い方だった。
けれど、深掘りするほどの違和感でもない。
それでも、佐久間は声を落として話しかけてくる。
「ここ、落ち着くよね」
「人少ないし」
萩野は小さく頷く。
「萩野」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
顔を上げると、佐久間はいつも通りの笑顔をしている。
「……え?」
萩野が驚いた顔をすると、
佐久間は短く「これ」と言って、本を開いて指さした。
正確には、裏表紙に貼られた貸出カード。
そこには、見慣れた自分の名前があった。
萩野。
日付も、何度もその本を借りた形跡があった。
「名前、覚えちゃってた」
佐久間の声は穏やかで、理由も自然だった。
「静かな本、好きなんだね」
褒め言葉の形をしている。
否定する理由はなかった。
それでも、胸の奥に小さな違和感が残る。
名前を、
自分が知らないうちに知られていたこと。
その違和感を意識しないように、
萩野は「はい」と頷く。
時間は、静かに流れていく。
やがて、佐久間が時計を見る。
「そろそろ帰る?」
「暗くなるし」
一緒に帰る流れが、借りたかった本と共に
あまりにも自然に差し出される。
断る理由は、見当たらなかった。
図書室を出ると、
佐久間は何も言わずに隣を歩く。
歩幅が、ぴったり合っている。
分かれ道に差しかかる。
「じゃあ、ここだね」
そう言って立ち止まる。
けれど、すぐには離れない。
「またね」
冗談のような声。
けれど、目は逸れない。
萩野は曖昧に笑って、家路についた。
〇
その夜。
ふと、昼間のことを思い返す。
貸出カードは、
本を開かないと見えない位置にあったこと。
佐久間は、
最初からその本を手に取っていたこと。
偶然。
そう思いたい材料は、まだ残っている。
だから萩野は、
その違和感を、今日も小さく折りたたむ。
心の本棚の奥に、
そっと仕舞い込むように。
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