そして、雨は降る

昨夜の出来事が、楓の全身に鉛のようにのしかかっていた。飯田の歪んだ笑顔。そして、耳元で響く、どこか甘ったるい小夜の声。「これで、私たち、ずっと一緒だよ……ね?」まるで粘着質の蜘蛛の糸のように絡みつき、楓の呼吸を苦しめる。佐野愛が、旧校舎の階段を転がり落ちていく光景が、何度も網膜に焼き付いては再生され、寝床の中で何度目覚めたか分からない。瞼の裏に焼き付いたその残像は、雨音と共に楓の精神を蝕んでいた。


梅雨の空は、昨日と同じく重く垂れ込めていた。鉛色の雲がどこまでも続き、希望という言葉とは無縁の世界を描いている。


校門へと続く坂道を、楓は重い足取りで上っていた。傘を差していても、まとわりつく湿気は肌に不快な膜を作り、気分をさらに落ち込ませる。学校の校舎は、いつもと変わらぬ姿でそこにあったが、楓の目には、その全ての窓が、昨夜の惨劇を目撃していたかのように、冷たく無機質に見えた。


特に、旧校舎の窓は、開いた口のように楓を睨んでいるようで、思わず視線を逸してしまう。あの場所に、佐野は横たわったままなのだろうか。それとも、もう誰かが発見し、全ては「なかったこと」にされているのだろうか。考えたくない。けれど、頭から離れない。


足元に、小さな水たまりができていた。そこに映る自分の顔は、青白く、まるで生気を失った死人のようだった。無意識のうちに、口元を覆っていた。あの夜、自分は何をしていた?


飯田の言葉に、何も答えられなかった。ただ、恐怖に打ち震え、彼の狂気を前にただ立ち尽くしていただけだ。共犯者となることを求められ、拒否も肯定もせず、ただ時間だけが過ぎていった。そして、飯田はいつの間にか、楓の前から姿を消していた。あの場所で、佐野と二人きりにされたらどうなるのかという、新たな恐怖に震えながら、楓は闇の中を逃げるように走り去った。結局、逃げたのだ。すべてから。


俯き加減で歩いていた楓は、ふと、視界の隅に違和感を覚えた。校舎の壁面に、影が差したような気がしたのだ。まだ太陽は顔を見せていない、こんな時間帯に。


ゆっくりと顔を上げ、視線を追っていく。視線の先は、旧校舎の屋上だった。誰もいないはずのそこに、黒い人影が一つ、雨に濡れる手すりの向こうに立っていた。飯田だ。


楓の心臓が、大きく跳ね上がった。全身の血の気が一瞬にして引いていく。


飯田は、制服姿だった。その姿は、雨に濡れて張り付いた髪のせいか、いつもよりも細く、頼りなく見えた。しかし、その顔に浮かぶ表情は、遠すぎてはっきりと見えない。ただ、こちらを見下ろしているかのような、まっすぐな視線だけが、楓の胸を深く抉る。なぜ、あんな場所に。昨日の出来事を、誰も知らないはずなのに、何故、彼はそんな場所で。


彼の視線は、楓へと向けられている。確信した瞬間、飯田の唇が、ゆっくりと、しかし確実に弧を描いたように見えた。それは、狂気とも、解放ともとれる、歪んだ笑みだった。


そして、彼は、何の躊躇もなく、手すりを乗り越え、宙へと身を投げ出した。


「っ…!」楓の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。視界の全てが、彼の落下する姿に固定される。雨粒を切り裂きながら、飯田の体が、驚くほどの速度でこちらへ向かってくる。まるで、巨大な石が、空から落ちてくるかのような光景だった。


脳が、その異常事態を処理しきれない。足が、地面に縫い付けられたかのように動かない。逃げなければ、そう警鐘を鳴らす理性とは裏腹に、体は完全に硬直していた。


飯田の目が、はっきりと見えた。その瞳には、昨日の夜と同じ、狂気と満足、そして、ほんのわずかな、純粋な喜びが宿っていた。それはまるで、長い旅の果てに、ようやく求めていた場所にたどり着いた旅人のような、安堵にも似た表情だった。その瞳の奥で、微かに揺れる人影があった。……小夜。そして、その視線は、真っ直ぐに、楓の瞳を射抜いている。


ああ、と楓は思った。彼は、私を巻き込むつもりなのだ。昨日、私が彼の「真実」を理解しなかったことへの報復か。それとも、共犯者となることを求められた、あの言葉の、本当の意味だったのか。このまま、逃げずに、彼の歪んだ世界に引きずり込まれるのか。


すべてが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。これまで生きてきた平凡な日々。大きな不満もなく、ただ波風立てずに生きてきた人生。何もかもが、今、この一瞬で、唐突に終わりを告げようとしている。


空気は、水を含んだように重く、楓の体を押さえつける。地面は、雨でぬかるみ、逃げることを許さない。ただ、無力に、差し迫る死を受け入れるしか選択肢がなかった。楓の全身を、諦めと、避けられない運命への絶望が支配する。


目の前には、飯田の顔が、さらに大きく、さらに鮮明に迫ってくる。彼の全身が、雨の膜を通して一瞬、透けるように、あるいは幻影のように、小夜の姿と重なり合った。その重なった小夜の顔は、昨夜、楓が恐怖した、あの底知れない狂喜に満ちた笑顔を浮かべていた。そして、楓の耳元で、甘く、そしてゾッとするような小夜の声が、はっきりと響いた。「…楓。これで私たち、ずっと一緒だよ」


ドォン、という、鈍く重い衝撃音が、全身を貫いた。世界が、一瞬にして、漆黒の闇に包まれる。意識が遠のき、体中の骨が砕けるような、激しい痛みが駆け巡った。それは、この世のものとは思えない苦痛だったが、それもすぐに、全てが無に帰すような、深い静寂に飲み込まれていった。


雨の匂い、土の匂い、そして、微かに混じる血の鉄臭さ。それら全ての感覚が、急速に薄れていく。楓の意識は、底なしの深淵へと、ゆっくりと沈んでいった。


梅雨の雨は、止むことなく降り続いていた。アスファルトに広がる、黒い染みが、雨水に少しずつ溶かされていく。それは、まるで、何事もなかったかのように、二つの命が失われた痕跡を、無慈悲に洗い流しているかのようだった。しかし、その場に横たわる二つの、不自然なほどに絡み合った体が、この世界に起きた、あまりにも唐突な悲劇を、静かに物語っていた。

アスファルトに広がる黒い染みは、ゆっくりと、しかし確実にその範囲を広げていた。雨水と混じり合い、薄紅色の渦を作り出し、やがては土の匂いに血の鉄臭さを加える。二つの体は、まるで最後の抱擁を交わすかのように、歪に絡み合ったまま微動だにしなかった。その姿勢は、生きる者には決して許されない、悍ましいほどの静寂を纏っていた。制服の生地は雨に濡れて重く、冷たく肌に張り付いているだろう。けれど、その体を覆うのは、もはや生きた人間の温もりではない。


やがて、校舎の窓から、登校を促すチャイムの音が、けたたましく響き渡った。日常の始まりを告げるその音は、この惨劇とは一切関わりなく、ただ空虚に繰り返される。

その音に急かされるように、一人の女子生徒が傘を傾け、駆け足で校門をくぐってきた。傘の雫を払いながら、視線を足元に落としていた彼女は、ふと、視界の隅に異様な色合いを捉えた。何だろう。制服のような、でももっと濃い、赤黒い、不気味な色彩。


ゆっくりと顔を上げた美咲の瞳は、次の瞬間、大きく見開かれた。

「……え?」

その、か細い声は、雨音にかき消されそうになるほど震えていた。彼女の目の前には、およそこの世のものとは思えない光景が広がっていた。二つの、ぐったりと横たわる人影。そのうちの一つは、見慣れた制服を着たクラスメイト、井川楓のようだった。もう一つは、無残に潰れた男の体。顔は判別できないほどに損傷しているが、その制服から、それが飯田将であると推測できた。二人の体は、まるで人形劇の糸が切れたように、不自然な形で絡み合っていた。


美咲の思考は、完全に停止した。何が起こったのか、理解が追いつかない。ただ、目の前の現実が、あまりにも非日常的で、あまりにも血生臭いことだけは、本能的に理解できた。

口から、乾いた空気が漏れる。全身の毛穴が逆立つような悪寒が走り、恐怖がじわりと全身を支配していく。

「ひっ……ああああああああっ!」

絞り出すような絶叫が、雨空の下、学校中に響き渡った。その悲鳴は、日常を突き破り、無慈悲な雨音を一時的にかき消し、校舎の壁に虚しくこだました。



美咲の絶叫は、雨粒がアスファルトを叩く音の中に、急速に飲み込まれていった。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。残されたのは、重く、粘りつくような沈黙と、じめじめとした湿気を帯びた空気、そして、目の前で蠢く、おぞましい現実だけだった。美咲は、両手で口を覆ったまま、その場に立ち尽くしていた。膝は震え、視界は定まらない。目から流れ落ちる雫は、雨なのか、それとも恐怖に裏打ちされた涙なのか、判別もつかなかった。


井川と同じクラスの美咲の絶叫は、雨粒がアスファルトを叩く音の中に、急速に飲み込まれていった。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。残されたのは、重く、粘りつくような沈黙と、じめじめとした湿気を帯びた空気、そして、目の前で蠢く、おぞましい現実だけだった。美咲は、両手で口を覆ったまま、その場に立ち尽くしていた。膝は震え、視界は定まらない。目から流れ落ちる雫は、雨なのか、それとも恐怖に裏打ちされた涙なのか、判別もつかなかった。


アスファルトに広がる赤黒い染みは、雨水に溶かされながら、ゆっくりとその輪郭を曖昧にしていく。それは、まるで二つの命が、この世界から跡形もなく消え去ろうとしているかのようだった。そして美咲の脳裏には、数ヶ月前、同じ場所に広がっていたもう一つの染みが、鮮やかに蘇っていた。あの時と同じ、鈍い赤色。同じ、冷たい雨。目の前に横たわるのは、見慣れたクラスメイト、井川楓。そして、もう一人、ぐちゃぐちゃに絡み合った男子生徒の体。二人の体は、まるで寄り添う恋人たちの最終形態であるかのように、不自然なほど密接に絡み合っていた。しかし、そこに宿るのは、生前の彼らが決して知り得なかった、冷たく、無機質な抱擁だけだった。楓の顔は、仰向けに天を仰ぎ、閉じた瞼の周りに、雨に濡れた髪が張り付いていた。その表情は、苦痛とも安堵ともつかない、見る者に無関心を強いるような静けさを湛えていた。もう一人の男子生徒の体は、原型を留めないほどに潰れ、その顔は、もはや人間のそれとは呼べないほどに損傷していた。


雨は、相変わらず音もなく降り続いていた。学校の屋根を滑り落ち、水たまりを作り、そして何事もなかったかのように、ただ世界を濡らし続ける。その無関心な連続が、井川と同じクラスの美咲の心を深く抉った。なぜ、こんなことが。昨日まで、隣の席でノートを広げていたはずの楓が、今、目の前で、冷たい雨に打たれている。まるで、昨日の温かい日常が、幻であったかのように。あの時もそうだった。雛川が屋上から身を投げた時も、世界は何も変わらなかった。


美咲の思考は、混乱の極みにあった。しかし、その混乱の奥底で、薄っすらと、しかし確実に認識されるものがあった。それは、この惨劇が、どこか必然であったかのような、漠然とした予感だった。あの時と同じ、じめじめとした梅雨の空の下、ゆっくりと澱んでいき、ある一点へと収束した結果が、またもこの目の前の光景であるかのように思えた。


校舎の窓は、雨に濡れて鈍く光っていた。その向こうには、いつも通りの日常が、既に始まっている。教室では、いつものように誰かが談笑し、教師の声が響き渡る。あの時と同じだ。雛川が死んだ日も、世界はこうして平然と回り続けていた。やがては、この惨劇も、一つの「事件」として処理されていくのだろう。けれど、アスファルトの染みは、たとえ洗い流されても、きっと残る。記憶として、あるいは、この世界に刻まれた、消えない傷跡として。雛川の残した染みがそうであったように。

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雨堕ちる 月雲花風 @Nono_A

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