幕引き

飯田は、ナイフの切っ先を、依然として佐野の目の前で、わずかに揺らしている。雨脚が、一層強くなった。叩きつけるような雨音が、旧校舎の壁を震わせ、彼らの閉ざされた世界をさらに濃密なものにしていた。


「あなたは…本当に、醜い」


飯田は、再び静かに呟いた。その声は、冷酷な響きを帯びていたが、その奥底に、どこか深い悲しみが混じっているように聞こえた。まるで、彼自身もまた、その「醜さ」の一部であるかのように。佐野の顔は、血の気を失い、ただ飯田の言葉を受け止めるしかない、無防備な表情を浮かべていた。彼女の瞳は、まるで遠い記憶を辿るように、ぼんやりと虚空を見つめている。かつて、誰よりも強く、誰よりも輝いていたはずの少女の残骸が、そこにあった。


飯田は、ゆっくりとナイフを下げた。その刃は、鈍い光を放ち、やがて床に落ちた。カラン、という軽い金属音が、旧校舎の重苦しい静寂の中で、妙に耳に響いた。佐野の表情に、微かな変化が訪れる。それは、絶望の淵から這い上がろうとする、一縷の希望にも似た輝きだった。


飯田は、佐野の震える肩に、そっと手を置いた。その手つきは、あまりにも優しく、そして、どこか慈愛に満ちているようだった。楓は、息を呑んだ。飯田の瞳は、雛川の柔らかな眼差しを模倣しているかのようにも見えた。その目は、佐野の恐怖を、まるで慈しむように見つめている。雨音だけが、彼らの間に流れる不自然な沈黙を掻き消そうとするかのように、一層激しさを増していた。


「もう、いいんです」


飯田の声は、まるで雛川の柔らかな声そのものだった。か細く、しかし、確かな響きをもって、佐野の耳に届いた。佐野の顔に、明確な安堵の色が浮かぶ。彼女は、ゆっくりと、しかし確かな力で、飯田の方を向いた。その瞳には、もはや恐怖はなかった。あるのは、理解と、そして救いを求める、純粋な願いだった。彼女の口元が、わずかに緩み、か細い息を吐き出す。楓は、その光景を、息をすることすら忘れ、ただ見つめていた。何が起こっているのか、脳が理解することを拒絶していた。


「あなたは…もう、苦しまなくていい」


飯田の言葉は、まるで子守唄のように優しかった。佐野は、その言葉に吸い寄せられるかのように、彼の瞳を見つめ返した。その瞬間、飯田の唇が、ゆっくりと弧を描いた。それは、雛川の可憐な笑顔とは似ても似つかない、冷酷で、底知れぬ悪意を宿した笑みだった。


佐野の安堵の表情が、一瞬にして凍りつく。飯田の目が、彼女の背後の階段へと、わずかに動いた。佐野は、その視線に導かれるように、ゆっくりと、しかし確実に、足元が不安定になっていることに気づいた。彼女の足は、いつの間にか、旧校舎の古びた階段の、一番上の段に立たされていた。


「さよ…」


佐野は、か細い声で、飯田…いや、雛川の姿をした彼に、そう呼びかけた。それは、許しを乞う最後の言葉だったのかもしれない。しかし、その言葉が完全に音になる前に、飯田の腕が、佐野の背中を、ためらいなく、強く押し出した。


「っ…!」


佐野の小さな悲鳴が、旧校舎の空間に響き渡る。その体は、無重力になったかのように、宙を舞った。そして、鈍い音を立てて、旧校舎の軋む階段を、見るも無残な形で転がり落ちていく。ゴトン、ゴトン、と、木製の段を打ち付ける音が、雨音の中でもはっきりと聞こえた。そのたびに、佐野の体から、何かが壊れるような音がする。悲鳴は、途中で途切れ、代わりに、嗚咽にも似た苦しげな声が漏れた。そして、一番下の段に到達した時、全ての音が止まった。


佐野愛は、床にうつ伏せになり、ぴくりとも動かなくなっていた。不自然に捻じ曲がった手足が、その生命の終わりを告げている。彼女の瞳は、虚ろに天井を見つめ、雨が叩きつける窓の向こうの灰色い空が、その目に映っているようだった。


楓は、目の前の光景に、凍り付いていた。呼吸の仕方を忘れたかのように、肺がひゅうひゅうと音を立てる。血の気が失せ、指先まで冷え切っていた。飯田は、佐野が転落していく様を、ただ冷たく、そして満足げな表情で見下ろしていた。その顔には、雛川の面影はもうなく、飯田将としての、狂気に満ちた、歪んだ笑顔が貼り付いている。


雨音だけが、絶え間なく降り注ぎ、すべてを洗い流そうとしているかのようだった。しかし、楓の網膜に焼き付いた佐野の最期の姿は、決して消えることはないだろう。このじめじめとした梅雨の空気が、さらに重く、楓の全身にのしかかる。目の前で、一つの命が、あまりにも冷酷に、そしてあっけなく失われた。その事実は、楓の心の奥底に、深い絶望と、救いようのない裏切りの感情を刻み込んだ。飯田は、ゆっくりと楓の方を向いた。その狂気の瞳が、楓を捕らえる。楓は、もうどこにも逃げられないことを、悟った。


飯田の瞳は、まるで深淵を覗き込むかのように、楓の奥深くを見透かそうとしていた。そこには、狂気と、理解不能なまでの歪んだ理屈が渦巻いている。楓は喉がカラカラに乾き、唾液を飲み込むことすらできなかった。目の端には、未だ旧校舎の階段の最下段に横たわる佐野の体が映っている。まるで、蝋でできた人形のように、冷たく、硬直した姿が。


「井川さん」


飯田の声が、湿った空気を切り裂いた。それは、先ほどの雛川を模した優しい声とも、佐野を糾弾した冷酷な声とも違っていた。どこか、探るような、そしてわずかに期待を込めたような響きが、楓の耳にまとわりつく。しかし、その根底に流れるのは、決して逃がさないという、鋼のような意志だった。


楓は、答えることができなかった。体が、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。恐怖が、全身の毛穴から染み出してくるかのように、冷たい汗が背中を伝った。雨は、窓を叩く音を強め、旧校舎全体が、今にも崩れ落ちそうなほどに軋んでいた。


飯田は、ゆっくりと、しかし着実に、楓との距離を詰めてくる。その一歩一歩が、楓の心臓を締め付ける。彼は、佐野のそばにあったナイフを拾い上げることもなく、ただまっすぐに楓を見つめていた。まるで、言葉だけで楓をねじ伏せるかのように。


「あなたは…見ていたんですね」


飯田は、立ち止まり、問いかけた。その表情には、一切の感情の揺らぎがない。ただ、静かに、楓の反応を待っている。楓は、反射的に首を横に振った。いや、見たくなかった。見なかったことにしたかった。しかし、網膜に焼き付いた佐野の絶望の表情と、転がり落ちる無様な姿は、二度と消すことのできない映像となって、脳裏に再生され続けている。


「嘘は、いけません」


飯田の声に、微かな、しかし決定的な失望の色が混じった。それは、楓が彼の「真実」を理解しないことに、苛立ちを覚えているかのようだった。彼の視線が、再び佐野の体に向けられる。


「彼女は…醜かった。誰も、雛川さんの苦しみに気づかなかった。誰も、僕の気持ちを理解しなかった」


飯田は、そう呟きながら、ゆっくりと佐野の遺体に近づいていく。そして、その目の前で立ち止まると、冷たい眼差しで佐野を見下ろした。その様子は、まるで昆虫を観察するかのようだ。


「でも、あなたは違いますよね、井川さん」


飯田は、佐野の遺体から目を離さず、しかし、楓へと語りかけた。その言葉の奥に、何か不穏な期待が込められているのを、楓は感じ取った。その期待が、楓の胸をさらに締め付ける。飯田の「真実」に、楓も巻き込まれるのだ。


「あなたは、いつも見ていた。みんなのことも。雛川さんのことも。そして、僕のことも」


飯田は、とうとう佐野から目を離し、再び楓の顔を見据えた。彼の顔に、微かな笑みが浮かぶ。それは、先ほどの狂気の笑みとも違う、純粋な、しかし歪んだ喜びを湛えた笑みだった。まるで、長年探し求めていた理解者を見つけたかのように。


「だから、わかってくれるでしょう?」


その言葉は、楓の心臓に直接、冷たい氷の刃を突き立てるようだった。飯田は、楓に共犯者となることを求めている。この狂気の世界の、たった一人の理解者として。


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