復讐の対峙

「ようやく分かったのか、佐野さん」


飯田の声は、勝利を確信したかのように、廊下に響き渡った。彼の視線は、地面に崩れ落ちた佐野を見下ろし、まるで汚物を見るかのような嫌悪感を露わにしていた。その瞳の奥には、雛川への執着と、自分を傷つけてきた世界への報復のような、ねじくれた感情が渦巻いている。楓は、その全てを目の当たりにして、呆然と立ち尽くしていた。佐野が追い詰められていたのは、霊などではなかった。生身の人間。しかし、その人間が放つ異様なまでの執着と狂気は、得体の知れない霊よりも、遥かに恐ろしいものだった。旧校舎の廊下には、稲妻の残光が消えた後も、生温かい湿気と、カビと、そして、飯田将の異質な匂いが充満していた。


「あなたが、雛川を嘲笑ったときも」


飯田は、一歩、佐野に近づいた。その声は、低く、しかし感情の熱を帯びていた。水滴が、彼の濡れた髪から頬を伝い、顎の先で微かに震えてから、床に落ちた。その一滴が、楓の耳には、まるで錆びた鉄が軋むような音に聞こえた。佐野は、顔を覆った両手の隙間から、震える瞳で飯田を見上げた。その目には、もはや傲慢さの欠片もなく、あるのはただ、生々しい恐怖と、理解しきれない困惑だった。飯田の表情は、歪んだ歓喜に満ちていた。


「あなたが、彼女の持ち物を弄び、教室で罵倒し、そして、」


飯田は、そこで言葉を区切った。その沈黙は、雨音さえも吸い込むかのように重く、廊下の空気を圧し潰した。楓の心臓が、嫌な音を立てて波打つ。飯田の視線は、佐野の顔から、ナイフが落ちた場所へとゆっくりと移動した。その動きだけで、楓の背筋に冷たいものが走った。佐野は、その視線の意味を瞬時に理解したのだろう。彼女の体は、一層激しく震え始めた。


「彼女の『死』を…まるで、お祭り騒ぎのように…楽しんだときも」


飯田の声は、嘲りを含んでいた。その「死」という言葉が、旧校舎の壁に染みついたかのように、陰湿な響きを伴ってこだました。楓は息を呑んだ。飯田の言葉は、佐野が以前、雛川の「幽霊騒動」を面白おかしくクラスメイトに話していた時のことを指しているのだろう。あの時、佐野の口から出た「死んだのかもね」「清々した」という言葉が、楓の脳裏に蘇った。その言葉の無神経さに、楓は胸の奥で小さな嫌悪感を覚えたことを思い出す。しかし、飯田のその言葉の裏には、もっと深く、もっとおぞましい意味が隠されているような気がした。彼の瞳の奥に宿る狂気は、それが単なる嘲笑では終わらないことを、明確に告げていた。


佐野は、顔を覆っていた両手を下ろした。その顔は、血の気を失い、まるで蝋人形のように白く、口元は乾いたまま半開きになっていた。彼女の瞳は、飯田の憎悪に満ちた眼差しに捕らえられ、まばたき一つしない。彼女の脳裏には、過去の自分が雛川に対して行ってきた、一つ一つの悪行が、鮮明に再生されているのだろうか。その全てが、今、飯田の口から、憎しみと執着というフィルターを通して、呪いのように突きつけられている。


「そして、あなたは…自分の保身のために、井川さんを殺そうとした」


飯田の声は、先ほどまでの嘲りを潜め、冷たい、しかし確固たる感情を伴っていた。彼の視線が、佐野から楓へと移る。その瞬間、楓の体は、びくりと大きく跳ねた。飯田の瞳は、雛川への執着と同じくらい、深い憎悪を楓に向けていた。まるで、楓もまた、雛川を傷つけようとした「悪」の一部であるかのように。楓は、自分が佐野に利用され、この惨劇に巻き込まれているのだという、残酷な事実を改めて突きつけられた。その事実に、胃の奥が冷たく締め付けられる。佐野の顔には、もはや恐怖だけではなく、深い絶望と、後悔の色が浮かんでいた。自分の行動の全てが、この狂気の眼差しの前で、赤裸々に暴かれていく。逃れようのない現実が、彼女を奈落の底へと引きずり込んでいた。


「自分が罪を犯したから、その罪を隠すために、他の人間を犠牲にしようとする…」


飯田は、ゆっくりと、楓の目の前に転がるナイフを拾い上げた。その鈍い銀色の刃が、薄暗い廊下の僅かな光を反射し、禍々しく輝く。飯田の指先が、刃の先端をそっと撫でた。その仕草は、まるで愛しいものを扱うかのようで、楓の全身から血の気が引いた。佐野は、その光景を目の当たりにし、喉の奥からひゅう、と引き攣るような息を漏らした。彼女の瞳は、ナイフに向けられたまま、一点を見つめていた。


「佐野さん、あなたは…醜い」


飯田の声は、静かだった。しかし、その静けさこそが、彼の言葉に決定的な重みを与えていた。醜い。その言葉が、佐野の最後の尊厳を打ち砕いた。彼女は、もはや涙を流すことすらできない。ただ、その場に打ちひしがれ、小さく震えるだけの存在になっていた。彼女の口元が、何かを言おうと微かに動いたが、音になることはなかった。喉が詰まり、声が出ないのだろう。楓は、その佐野の姿から、目を逸らすことができなかった。かつてクラスの頂点に君臨し、自信に満ち溢れていた佐野愛は、もうそこにはいなかった。あるのは、狂気の淵に立つ一人の男によって、全てを暴かれ、打ち砕かれた、絶望の塊だけだった。雨音だけが、旧校舎のひび割れた窓を叩き続けていた。じめじめとした空気が、彼らの周りを重く渦巻いている。

飯田は、拾い上げたナイフをゆっくりと持ち上げた。その鈍い刃は、旧校舎の薄暗闇の中で、獲物を狙う獣の牙のように見えた。彼はそれを、佐野の目の高さまで持ち上げ、じっと見つめさせた。佐野の視線は、ナイフの先端に釘付けになり、全身を硬直させていた。その瞳は、焦点が定まらないまま、虚ろに揺れている。彼女の胸元で、か細い呼吸がひゅーひゅーと音を立て、まるで朽ちたオルゴールが鳴っているかのようだった。


「佐野さん。あなたは、自分だけが特別だと、思っていたんだろう?」


飯田の声には、もはや怒りや嘲りはなかった。ただ、深く冷たい諦めのような響きがあった。それは、佐野の存在そのものを、徹底的に否定する響きだった。彼の濡れた前髪から、再び水滴が落ち、佐野の頬のすぐ横の床に染みを作った。佐野は微かに身を竦め、まるでその水滴が彼女の血であるかのように、怯えた表情を浮かべた。


楓は、喉の奥がカラカラに乾いているのを感じた。目の前で繰り広げられる光景は、あまりにも現実離れしていて、しかし、肌を刺すような湿気や、カビと鉄の匂いは、紛れもない現実を告げていた。飯田の言葉は、佐野の心の核を抉り取ろうとしているかのようだった。そして、その言葉の一つ一つが、楓の心にも響いてくる。自分は、彼らの争いとは無関係な傍観者ではいられない。いつの間にか、楓自身もこの旧校舎の暗い舞台の一員になってしまっていた。


飯田は、ナイフの切っ先を、佐野の震える指先に向けた。


「美香さんのことも春さんのことも、道具としか思っていなかった。雛川のことも、自分の優位性を示すための踏み台としか思っていなかった」


その言葉は、佐野の耳に、まるで硝子を引っ掻く音のように届いたのだろう。彼女の体が、ゆっくりと、しかし確かな力で、地面を這うように後ずさろうとした。しかし、その動きはあまりにも緩慢で、まるで意識と体の繋がりが希薄になっているかのようだった。飯田は、佐野のわずかな動きを見逃さなかった。彼は、一歩、佐野に近づき、その逃走を阻んだ。


「何がそんなに、あなたを駆り立てるんだ?」


飯田は、そう問いかけた。その問いは、答えを求めているようには聞こえなかった。むしろ、佐野の深淵を覗き込み、その醜さを再確認するための問いかけに近かった。佐野は、口を半開きにしたまま、何とか言葉を紡ごうと藻掻いた。その喉からは、か細い、擦れた音が漏れた。


「ち……ちが……」


その言葉は、ほとんど声にならなかった。か細く、風に揺れる蝋燭の炎のように頼りない。かつて、教室で支配的な声を発し、周囲を意のままに操っていた佐野愛の面影は、そこには微塵もなかった。あるのは、剥き出しの恐怖と、どうすることもできない無力感に苛まれる、一人の少女の姿だけだった。


飯田の視線が、再び楓へと向けられた。その目に宿る憎悪が、楓の胃をさらに締め付ける。


「井川さん。あなたが、佐野さんに利用されていたと知って、どう思った?」


飯田は、楓に直接問いかけた。その声は、佐野に向けられていた冷酷な響きとは異なり、どこか甘く、そして歪んだ期待を含んでいた。まるで、楓が飯田の味方となり、佐野を糾弾することを望んでいるかのように。楓は、その唐突な問いかけに息を詰まらせた。自分の感情が、白日の下に晒されることを拒むかのように、全身が強張った。


飯田の言葉は、佐野の心に新たな痛みを刻み込んだのだろう。佐野は、楓へと向けられた飯田の視線を、まるで裏切り者のように睨みつけた。その目には、まだ諦めきれない、かすかな自己弁護の輝きが宿っていた。


「さ、佐野さんは……」


楓は、震える声で何かを言おうとした。しかし、言葉が喉に詰まって出てこない。佐野の顔、飯田の狂気、そして床に落ちたナイフの光。その全てが、楓の脳内で混沌とした渦を巻き、思考を麻痺させていた。自分が何を言うべきなのか、いや、何を言えるのか。佐野を弁護するのか、それとも飯田に同調するのか。どちらも、楓には選び取れない道だった。どちらを選んでも、この場がさらに悪化するような、そんな気がした。


飯田は、楓の沈黙を、自分の問いへの肯定と受け取ったかのように、満足げな笑みを浮かべた。その笑顔は、雛川の可憐な顔に張り付いた異質なもので、楓は背筋が凍る思いがした。


「そうだろう? 結局、誰もが自分のことしか考えていない」


飯田は、そう呟いた。それは、佐野への糾弾であると同時に、楓への、そしてこの世界への、深い絶望と諦念の表明のように響いた。彼の目は、再び佐野へと戻った。ナイフの切っ先は、依然として佐野の目の前で、わずかに揺れている。雨脚が、一層強くなった。叩きつけるような雨音が、旧校舎の壁を震わせ、彼らの閉ざされた世界をさらに濃密なものにしていた。


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