彼の回想

佐野の足音が遠ざかり、井川の震える気配が廊下に残響のように漂っている頃、飯田将は旧校舎の奥深く、埃を被った生物準備室の暗闇にいた。窓の外では相変わらずの雨が降り続き、錆びた樋を叩く音が、彼の心臓の鼓動と妙なリズムで共鳴している。佐野の行動は、全て彼の計画通りに進んでいた。彼女の浅はかな嫉妬と承認欲求は、まるで燃料のように飯田の復讐の炎を勢いづかせている。井川楓を新たな標的に選んだ佐野は、まさに自滅への道を一直線に進んでいると、飯田は確信していた。彼女の歪んだ正義感が、やがて彼女自身を蝕むだろう。それは、飯田が雛川小夜のために用意した、精緻な罠だった。


飯田は、かつて生物の標本が並んでいた棚の一角を、彼だけの聖域に変えていた。そこには、薄暗い部屋の隅に打ち捨てられていた教卓を改造した簡素な祭壇があり、中央には雛川小夜が落としたとされている、色褪せたリボンの切れ端が静かに置かれている。それは、彼が雛川への執着を形にした唯一の遺品だった。周囲には、錆びついたカミソリ、使い古された化粧筆、そして小さなガラス瓶に入った白い粉が整然と並べられていた。全ては、彼が雛川の「霊」を完璧に演じるための、重要な道具である。


彼は、祭壇の前に膝をついた。膝をついたまま、震える手でそのリボンをそっと持ち上げ、顔に近づける。微かに残る彼女の香りを吸い込もうとするかのように、何度も、ゆっくりと息を吐き、吸った。それは、幼い頃からずっと憧れ、唯一の光として崇めてきた存在。しかし、その光は佐野という醜悪な存在によって汚され、彼はそれを決して許すことはできなかった。飯田の脳裏には、雛川の透き通るような肌、長い黒髪、そして物憂げな瞳が鮮明に蘇る。彼は、彼女が自分以外の何者にも染められることを許さなかった。彼女の純粋さを守るためには、どんな手段も正当化される。そう信じていた。


「小夜さん…僕が、貴方を救い出す」


飯田の声は、生物準備室の湿った空気に吸い込まれていく。独り言のようでありながら、それはまるで神に誓うかのような、厳粛な響きを持っていた。彼の痩せこけた指先が、ガラス瓶の蓋を開ける。白い粉は、舞台用のフェイスパウダーだった。元々、演劇部の備品だったものを、彼がこっそり持ち出したのだ。


彼は、まず自分の顔を、まるでキャンバスのように白いパウダーで覆い始めた。化粧筆を使い、丹念に、何度も肌に滑らせる。彼の肌は、元々血色が悪い方だが、白い粉を重ねることで、さらに生気を失ったかのように蒼白になっていく。鏡を見るまでもなく、その感触で自分の顔が、雛川小夜の持つ、あの非現実的なまでの透明感に近づいていくのがわかった。


次に、唇。彼は、細い筆を使い、唇の色を消していく。生きた人間の証である赤みが消え、薄い桃色からやがて無色に近い色へと変化する。その作業は、まるで彼自身の生命力を奪っていくかのような、どこか物悲しい儀式のようだった。完璧な「霊」には、生者の血の色は不要だ。


「あなたは、ここにいる…僕の中に…」


飯田は、ぶつぶつと呟きながら作業を続ける。彼の目は、異常なほどの輝きを放っていた。彼の目に映るのは、もはや自分自身の姿ではない。そこにいるのは、彼の理想とする雛川小夜の姿なのだ。孤独を愛し、外界と隔絶された、しかし圧倒的な美しさを秘めた「妖精」。彼は、その「妖精」が、佐野の手によって傷つけられたことを、決して忘れていなかった。そして、その復讐の準備が、今、最終段階を迎えている。


彼は、祭壇の横に置いてあった、一着の制服に手を伸ばした。それは、雛川小夜の制服だった。彼女が学校に来なくなり、しばらく経ったある日、彼女のロッカーが開け放たれているのを見つけ、そこからこっそりと持ち出したのだ。他の生徒には、雛川が制服を置き忘れたまま転校したか、あるいは、もう二度と戻らない場所へ行ってしまったとしか思われていないだろう。しかし、飯田にとっては、それは聖遺物だった。彼女の残り香が、まだ僅かに染み付いているような気がした。


制服の袖に腕を通す。ぶかぶかだった。雛川の華奢な体にはぴったりだった制服は、飯田の骨ばった体には、どこか不格好に映る。だが、飯田は気にも留めない。大切なのは、外見的な完璧さではない。彼が内面に宿す「雛川小夜の魂」を、いかにして外界に顕現させるか、それこそが重要なのだ。


彼は、暗闇の中で、ゆっくりと呼吸を整える。心臓の鼓動が、自分のものとは思えないほど穏やかになっていく。梅雨のじめじめとした湿気が、彼の体全体を包み込み、皮膚の感覚を鈍らせていくようだった。この鈍麻した感覚こそが、彼が求めていたものだ。生者としての感覚を捨て、死者の、あるいは霊的な存在としての感覚を身につける。


「佐野愛…あいつは、自ら災いを招いた。井川楓を標的にしたことで、小夜さんの呪いから逃れられない」


飯田の声は、以前よりもさらに低く、どこか抑揚を失っていた。それは、飯田将としての声ではなく、彼の中に宿る雛川小夜の「霊」が語りかけているかのようだった。彼の心には、一抹の迷いもなかった。佐野が井川を排除しようとするその行為こそが、雛川の「呪い」を増幅させ、やがて佐野自身を滅ぼす引き金となる。全ては、彼の完璧な計画の中に組み込まれていた。


飯田は、静かに立ち上がった。埃の舞う暗闇の中、彼の白い顔だけが、幽霊のように浮かび上がって見える。その瞳には、歪んだ正義感と、深い狂気が宿っていた。外の雨音が、ひときわ大きく響き渡る。それはまるで、飯田がこれから起こす、恐ろしい「事件」の幕開けを告げる鐘の音のようだった。雛川小夜の「呪い」は、今、飯田将という器を通して、現実の世界にその姿を現そうとしていた。

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