介入
楓は、もう二度と振り返らなかった。背後から迫る佐野の足音は、まるで漆黒の森で獲物を追い詰める獣のそれのように、楓の鼓膜を直接叩いた。肺は焼け付くように痛み、喉からは血の味が込み上げる。制服は汗と雨と血で張り付き、重くまとわりつく。それでも、足は止まらなかった。生き延びたい。そのただ一つの本能が、全ての痛みを麻痺させ、彼女の体を突き動かしていた。旧校舎の廊下は、壁を這うカビの匂いと、腐敗した木の匂いが混ざり合い、生温かい梅雨の空気と相まって、息苦しさを増していた。廊下の先には、外へと続く階段が見える。あと少し、あと少しだけ。
「逃がさないって言ってるでしょう!」
佐野の叫び声が、背中に氷の刃を突き立てる。足音は、もうすぐそこまで来ていた。その声には、怒りだけではない、何か決定的なものを奪われまいとする焦りが混じっていた。楓は、もはや呼吸することさえ苦しく、目の前が真っ白になりかけたその時――
どこからともなく、微かなすすり泣く声が聞こえてきた。それは、雨音に紛れて、しかし耳の奥にまとわりつくような、奇妙な音だった。子供が、何かを我慢するように嗚咽を漏らす、そんな音。楓は、恐怖で硬直した体を無理やり動かし、一度だけ振り返った。
佐野は、廊下の真ん中で、ピタリと動きを止めていた。ナイフを握る手が、微かに震えているのが薄暗い中でも見て取れた。その顔は、先程までの凶悪な憎悪に満ちた表情から一変し、まるで幻影でも見たかのように青ざめている。瞳は大きく見開かれ、一点を凝視している。
すすり泣く声は、次第に大きくなる。それは、確かにこの旧校舎のどこか、すぐ近くから聞こえてくるようだった。しかし、声の主の姿は見当たらない。湿った空気に、まるで霧のようにその声だけが漂い、佐野の周囲を、そして楓の耳朶を容赦なく蝕んでいく。
「な、何…?」
佐野の口から、か細い声が漏れた。その震えは、恐怖からくるものだ。凶器を手にし、人を殺めようとした彼女が、今、何か見えないものに怯えている。楓は、その佐野の姿に、また新たな恐怖を覚えた。佐野を怯えさせる「何か」が、この場に現れたのだ。
すすり泣く声は、まるで楓の思考を嘲笑うかのように、一際大きく響き渡った。それは、幼い少女の、しかし底知れない悲しみを宿したような、ゾッとする声だった。
その時、廊下の奥、薄暗い空間から、ゆらりと何かが現れた。
それは、まるで深い影が形を得たかのような、曖昧な存在だった。細く、儚げな輪郭。それは、まるで制服を纏った少女のようにも見えた。その姿が、雨で濡れた廊下の床に、ぼんやりと映り込む。しかし、その足元は、まるで地面から数センチ浮いているかのように、不確かなものだった。
佐野は、その影のような存在から、一歩、また一歩と後ずさった。ナイフを握る手に力がなくなり、切っ先がガタガタと震えている。彼女の口から、ひゅう、という引き攣るような息が漏れた。
「ひ、ひながわ…?」
佐野は、絞り出すような声で、その名を呼んだ。その言葉に、楓の背筋が凍り付いた。まさか。そんなはずは、と頭では理解しながらも、その影が雛川小夜の姿に重なって見えた。薄暗い廊下で、その影はゆっくりと、しかし着実に佐野へと向かってくる。その動きには、生きた人間の持つ力強さも、弱々しさもない。ただ、そこにある、という絶対的な静けさだけがあった。
そして、その影から、声が聞こえた。すすり泣きは止み、代わりに、まるで遠くから聞こえるかのような、しかしはっきりと耳に届く声。それは、雛川小夜の声だった。しかし、その声は、どこか不自然に響く。感情が乗っているようで、その実、棒読みのようでもあった。
「どうして…私を…いじめるの…?」
その言葉は、旧校舎のひび割れた壁にこだまし、雨音を切り裂いた。佐野の顔は、さらに青ざめ、完全に恐怖に支配されていた。彼女は、ナイフを取り落とす寸前まで手が震えていた。
「どうして…私を…苦しめるの…?」
声は、先ほどよりも少しだけ強い感情を帯びていた。その影は、佐野の目の前でぴたりと止まる。そして、ゆっくりと、その顔が佐野へと向けられた。薄暗闇の中でも、その瞳が、まるで暗闇を吸い込むかのように真っ黒で、しかし同時に、底知れない光を宿しているように見えた。それは、雛川小夜の瞳そのものだった。しかし、その奥に宿る感情は、楓には全く理解できないものだった。
「佐野さん、あなたが、私を、消したかったの?」
その声が、今度ははっきりと、怨嗟の響きを帯びて佐野に問いかけた。佐野は、完全に硬直し、一言も発することができなかった。彼女の顔には、殺意の面影はどこにもなく、あるのは純粋な、生々しい恐怖だけだった。
その時、影が、ゆらりと佐野に向かって手を伸ばした。まるで、佐野の心臓を直接掴もうとするかのように、ゆっくりと。佐野は、完全にパニックに陥った。絶叫が喉の奥で詰まり、彼女の全身が震え上がった。
「や…やめて…っ!」
彼女は、ついにナイフを取り落とした。カラン、と鈍い音が、静寂に包まれた廊下に響き渡る。ナイフは、佐野の足元に転がり、薄暗い床に鈍い光を反射した。佐野は、もはやその場に立ち尽くすことさえできず、まるで糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。その瞳は、影に映る雛川小夜の顔に釘付けになっている。
楓は、その光景を呆然と見つめていた。何が起こっているのか、全く理解ができない。しかし、一つだけ確かなことは、佐野の殺意が、この「雛川小夜の影」の出現によって完全に掻き消された、ということだった。楓は、その影に、しかし微かな違和感を覚えた。その「雛川小夜」は、確かに雛川小夜の声で話している。だが、その声のトーン、その言葉選び、そして何よりも、その瞳の奥に宿る「熱」が、雛川小夜本来の持つ、クールで達観した雰囲気に、まるで似つかわしくなかった。それは、もっと粘着質で、もっと独善的で、もっと「人間臭い」、歪んだ感情が滲み出ているように感じられたのだ。
その歪みは、影の瞳の奥で、異様な熱を帯びて燃え上がっていた。それは、雛川小夜の持つ、研ぎ澄まされた知性の光とは全く異なる、もっと個人的で、病的なまでに深く、そして暗い輝きだった。
「私のこと、誰にも渡したくなかったの? それとも……あなただけのものにしたかったの?」
影の声は、今度は甘えるような、しかしどこか嘲るような響きを帯びて佐野に問いかけた。その言葉の節々から滲み出る感情は、まるで絡みつく蔦のように粘着質で、雛川小夜の清廉なイメージとはあまりにもかけ離れていた。佐野は、顔を覆うように両手を広げ、地面に膝をついたまま、震える声で懇願した。
「や、やめて…、お願い…、許して…!」
もはや彼女の瞳に、憎悪や殺意の片鱗はなかった。あるのは、純粋な、そして底なしの恐怖。影は、そんな佐野の訴えをまるで聞き入れないかのように、ゆっくりと一歩踏み出した。雨に濡れた学ランの裾が、びちゃりと音を立てたような気がして、楓は思わず息を呑んだ。
影の持つ不確かな輪郭が、佐野の目の前に迫る。そして、その手が、震える佐野の顔へと、再びゆっくりと伸びていった。薄暗闇の中でも、楓の目には、その指先がわずかに太く、まるで男の手のように見えた。ひやりとした空気が、佐野の頬を撫でる寸前、影はぴたりと動きを止めた。
「あなたは…僕の雛川に…触れる資格なんてないんだ」
その声は、雛川小夜のものではなかった。低く、粘着質で、そして決定的なまでに、男の声だった。感情の制御を失ったかのように、言葉の端々から怒りと、深い執着が迸る。楓の背筋に、冷たい汗が伝った。やはり。この「影」は、雛川小夜ではない。そして、その正体が誰であるのか、楓は確信した。
佐野は、その言葉を聞いて、目を見開いた。恐怖に歪んだ顔が、困惑に変わる。男の声。それは、まさしく彼女を追い詰めていた「影」の真の姿を物語っていた。
影は、佐野の顔から手を下ろすと、ゆらりと体勢を整えた。その瞬間、薄暗い廊下の奥、窓の外で閃光が走った。稲妻が、旧校舎のステンドグラスを瞬間的に照らし出し、その光が、影の姿をはっきりと映し出した。
そこに立っていたのは、雛川小夜ではなかった。
ずぶ濡れの学ラン。その濡れた髪は、額に張り付いている。顔色は青ざめ、目元は隈で黒ずみ、瞳は異様な光を宿している。痩せこけた頬は、何かに憑かれたかのようにこわばり、口元は歪んだ笑みを浮かべていた。
飯田将。
彼だった。
「ひ……飯田…?」
佐野は、その名前をか細く、信じられないものを見るように呟いた。恐怖と混乱が入り混じった彼女の表情は、もはや見る影もなかった。飯田は、佐野の言葉を聞き、その笑みをさらに深く歪ませた。まるで、自分の正体を悟られたことに、どこか歓喜しているかのように。
「ようやく分かったのか、佐野さん」
飯田の声は、勝利を確信したかのように、廊下に響き渡った。彼の視線は、地面に崩れ落ちた佐野を見下ろし、まるで汚物を見るかのような嫌悪感を露わにしていた。その瞳の奥には、雛川への執着と、自分を傷つけてきた世界への報復のような、ねじくれた感情が渦巻いている。
楓は、その全てを目の当たりにして、呆然と立ち尽くしていた。佐野が追い詰められていたのは、霊などではなかった。生身の人間。しかし、その人間が放つ異様なまでの執着と狂気は、得体の知れない霊よりも、遥かに恐ろしいものだった。旧校舎の廊下には、稲妻の残光が消えた後も、生温かい湿気と、カビと、そして、飯田将の異質な匂いが充満していた。
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