もうすぐ
放課後のチャイムが、やけに虚ろな響きで旧校舎の廊下に吸い込まれていく。井川楓は、佐野愛からのメッセージを何度も読み返した。「少し考えが変わったの、ちょっと大事な話があるから、放課後旧校舎の生物準備室に来て。誰もいない方がいいでしょ」。その文字の並びには、いつもと違う底冷えするような圧力があった。
楓の胸には、漠然とした不安の澱が溜まっていた。梅雨空の下、窓の外は相変わらず雨が降り続き、錆びた樋を叩く音が、じめじめとした空気と共に耳にまとわりつく。旧校舎の廊下は、日中でも薄暗く、埃とカビが混じったような特有の匂いがした。錆びついたロッカーが不規則に並び、床には染みのようなものが点々と残っている。一歩足を踏み出すごとに、自分の靴音だけが異様に大きく響き、楓は思わず肩をすくめた。佐野が一体何を話したいのか。まさか、自分がこれまで築き上げてきた、薄っぺらな平穏が崩れ去ろうとしているのではないか。そんな予感に、全身の毛穴がざわめくのを感じた。
生物準備室の扉は、古びた木材が軋む音を立てて開いた。中はさらに暗く、窓から差し込む光も、分厚い埃に覆われたガラスに遮られ、かろうじて部屋の輪郭をなぞる程度だ。部屋の中央に置かれた教卓の上に、佐野愛が静かに座っていた。普段の彼女の派手な装いとは違い、今日は制服姿で、髪も結んでいる。その瞳の奥には、いつも以上に冷たい光が宿っていた。楓は、息を呑んだ。佐野の周りには誰もいない。それが、かえって楓の不安を増幅させた。
「よく来たわね、井川」
佐野の声は、いつになく落ち着いていた。その落ち着きが、楓には酷く不気味に感じられた。
「佐野さん、雛川さんの事は何も知らない…もうやめて…」
楓は、努めて平静を装いながら尋ねた。喉がからからに乾き、声が上ずっているのが自分でもわかる。佐野は、教卓からゆっくりと降り、楓に近づいてきた。その手には、何か光るものが握られている。蛍光灯の僅かな反射が、それは包丁のような形をしていることを楓に伝えた。心臓が、耳元で激しく脈打つ。嫌な汗が背中を伝った。
「あなた、雛川小夜の友達だったんでしょ?」
佐野は、感情のこもらない声で問いかけた。その目は、楓を通り越して、遠くの何かに焦点を合わせているかのようだった。その言葉が、楓の胸に突き刺さる。友達。本当にそうだったのだろうか。ただ、雛川小夜という謎めいた存在に惹かれ、傍にいたかっただけではないのか。自分の無力さ、無関心さが、この状況を引き起こしたのではないか。後悔と恐怖が、同時に楓の心を蝕んでいく。
「ち…、ちが…」
楓の返事は、か細く、今にも消え入りそうだった。佐野は、その曖昧な返事を聞くと、ふっと不敵な笑みを浮かべた。その笑みは、楓の知るどの笑顔よりも恐ろしかった。そこに宿るのは、純粋な悪意、そして支配欲だった。彼女の瞳は、楓の怯えを映し出し、それを楽しんでいるかのようだった。
「そうよ。友達なんかじゃない。あなたみたいな無関心な奴に友達なんている訳ないのよ」
佐野の声が、一瞬にして冷酷な刃へと変わった。そして、彼女の手が、閃光のように動いた。楓は、その瞬間、全身の血の気が引くのを感じた。鈍い金属音が、湿った空気を切り裂く。佐野が握っていたのは、まさしく鋭利なナイフだった。その切っ先が、楓の顔すれすれを通り過ぎ、壁に突き刺さる。ギィィ…と、不快な音が部屋に響き渡った。楓は、悲鳴を上げる間もなく、その場にへたり込んだ。
「きゃっ!」
恐怖で足がもつれ、尻餅をつく。佐野は、容赦なくナイフを壁から引き抜き、再び楓に襲いかかった。切っ先が、今度は楓の喉元を狙う。楓は、咄嗟に腕を上げ、ナイフの軌道を逸らそうとした。しかし、佐野の力は想像以上に強く、ナイフは楓の腕を深く切り裂いた。熱い痛みが走り、生暖かい血が制服の袖に滲む。楓は、思わず呻き声を上げた。視界が滲む。痛みよりも、この理不尽なまでの暴力に対する絶望が、彼女の意識を侵食しようとしていた。
「本当はゆっくり時間をかけて追い詰めたかったけど…!もう、全部終わらせる…」
佐野は、狂気に満ちた目でそう叫び、さらにナイフを振り下ろそうとする。楓は、死への恐怖に駆られ、必死に抵抗した。体中の力が湧き上がるのを感じる。平凡で退屈だと思っていた自分の人生が、こんな形で終わるなど、到底受け入れられない。彼女は、佐野の腕にしがみつき、必死にナイフを遠ざけようともがいた。足で佐野の脛を蹴り、肘で脇腹を突く。しかし、佐野の殺意は、楓の抵抗を嘲笑うかのように増していくばかりだった。
「やめて!何をするのっ!」
楓の叫び声は、旧校舎の壁に虚しく吸い込まれていく。雨音が、まるで彼女の絶叫をかき消すかのように、激しさを増していた。埃っぽい空気と、血の匂いが混ざり合う。佐野の顔は、殺意に歪み、その形相はもはや人間のそれではない。楓は、もはや自分が何と戦っているのかもわからなかった。ただ、本能的に、生きるためにもがくことしかできなかった。この旧校舎の暗闇の中で、彼女の命の灯火が、今にも消え入りそうに揺れている。佐野のナイフが、再び楓の顔めがけて振り下ろされた。楓は目を閉じ、来るべき衝撃に身構えた。
しかし、衝撃は来なかった。
ヒュッ、という空を切る音が耳元を過ぎ去り、直後、ガツン!という鈍い音が壁の奥から響いた。鉄筋の通ったコンクリート壁に、ナイフの切っ先が深々と突き刺さったのだ。楓は恐る恐る目を開けた。佐野のナイフは、楓の頭からほんの数センチのところで止まっている。冷たい金属の切っ先が、楓の汗で湿った頬をかすめ、一筋の冷気が走った。ナイフが壁に食い込んだ衝撃で、佐野の腕が僅かに震えている。
「くっ……!」
佐野は舌打ちすると、再びナイフを壁から引き抜こうと力を込めた。鉄が擦れる不快な音が、薄暗い部屋に響き渡る。その隙に、楓は這うようにして後ずさった。全身の筋肉が悲鳴を上げ、傷口の熱い痛みが脈打つ。足元に散らばる埃まみれの試験管やフラスコが、カラン、と寂しい音を立てた。
「逃がさないわよ、井川」
佐野の声が、獲物を追い詰める捕食者のように冷酷に響いた。ナイフは、ようやく壁から抜け、佐野の手に再び鈍い光を宿す。佐野はゆっくりと、しかし確実に楓との距離を詰めてくる。その一歩一歩が、楓の心臓を直接掴むかのようだった。部屋に立ち込めるカビと埃の匂いに、生々しい血の鉄臭さが混じり合い、楓の胃を強く刺激する。
「やめて…!お願いだから…」
楓は懇願した。喉の奥から絞り出すような声は、もはや自分のものとは思えなかった。梅雨の蒸し暑い空気が、肺の奥まで重くのしかかる。
「お願い?何が?私に懇願する資格なんて、あなたにはないのよ」
佐野は嘲笑うように言った。その瞳は、狂気と愉悦でぎらついていた。まるで、楓の恐怖が佐野の生命力になっているかのようだった。佐野は、ナイフを楓の目の前でゆっくりと左右に振る。銀色の刃が、唯一差し込む薄明かりを反射し、ちらちらと不気味に瞬いた。
「どうして……どうして、こんな…?」
楓は、震える声で尋ねた。理解できなかった。佐野の行動の、その根底にあるものが。今まで、ただのクラスメイトとして、表面的な挨拶を交わすだけの存在だったはずだ。
「どうして?……ふふっ、本当に何もわかってないのね、あなたは」
佐野は、突然、悲しげな、しかしすぐに憎しみに変わるような表情を浮かべた。
「あなたも、雛川小夜も…!あんたたちみたいな人間が、私は大嫌いだった…!」
その言葉に、楓は息を呑んだ。佐野の言葉には、ただの嫉妬だけではない、もっと深い、根源的な怒りが込められているように感じられた。それは、彼女の過去の、拭い去れない傷跡からくるものなのだろうか。しかし、そんなことを考えている暇はなかった。佐野は、楓の思考が及ばないうちに、再び襲いかかってきたのだ。
「何も持っていないくせに、全部手に入れた顔をして…!あんたみたいなのが生きてる意味なんてないのよ!」
佐野の叫びは、憎悪に満ちていた。ナイフの切っ先が、楓の腹部めがけてまっすぐに突き出される。楓は、咄嗟に右に身を捩った。ナイフは、彼女の制服のスカートを裂き、ギリギリのところで肌をかすめた。背筋に冷たいものが走る。命が、本当にあと一歩で奪われる瞬間だった。
その時、楓の目に、部屋の隅に積み上げられた古びた椅子が映った。実験台の傍に無造作に置かれたそれらは、埃を被っているものの、足場としては十分に使えそうに見えた。このままでは殺される。本能が、楓にそう告げていた。
「っ……!」
楓は、血の滲む腕を庇いながら、必死に立ち上がった。そして、よろめきながらも、その椅子めがけて飛びついた。ガタン!と大きな音を立てて椅子が倒れる。楓は、その衝撃でさらにバランスを崩しそうになるが、かろうじて体勢を立て直した。佐野の顔が、さらに凶悪に歪む。彼女は、楓が逃げようとしていると悟ったのだ。
「どこへ行くつもり!逃げられるとでも思っているの!?」
佐野は、低い声で唸るように言い放ち、倒れた椅子を蹴り飛ばしながら楓に迫る。だが、楓はもう振り返らなかった。彼女の目に映るのは、旧校舎の廊下へと続く、わずかに開いたドアだけだった。雨音は一層激しくなり、まるでこの部屋の惨劇を外に漏らさないように覆い隠しているかのようだった。楓は、全身の痛みを無視して、ただ、そのドアへと向かって走り出した。生きたい。そのたった一つの本能が、彼女の体を突き動かしていた。後ろから、佐野の足音が、獲物を追いかける獣のように迫ってくる。しかし、衝撃は来なかった。
ヒュッ、という空を切る音が耳元を過ぎ去り、直後、ガツン!という鈍い音が壁の奥から響いた。鉄筋の通ったコンクリート壁に、ナイフの切っ先が深々と突き刺さったのだ。楓は恐る恐る目を開けた。佐野のナイフは、楓の頭からほんの数センチのところで止まっている。冷たい金属の切っ先が、楓の汗で湿った頬をかすめ、一筋の冷気が走った。ナイフが壁に食い込んだ衝撃で、佐野の腕が僅かに震えている。
「くっ……!」
佐野は舌打ちすると、再びナイフを壁から引き抜こうと力を込めた。鉄が擦れる不快な音が、薄暗い部屋に響き渡る。その隙に、楓は這うようにして後ずさった。全身の筋肉が悲鳴を上げ、傷口の熱い痛みが脈打つ。足元に散らばる埃まみれの試験管やフラスコが、カラン、と寂しい音を立てた。
「逃がさないわよ、井川」
佐野の声が、獲物を追い詰める捕食者のように冷酷に響いた。ナイフは、ようやく壁から抜け、佐野の手に再び鈍い光を宿す。佐野はゆっくりと、しかし確実に楓との距離を詰めてくる。その一歩一歩が、楓の心臓を直接掴むかのようだった。部屋に立ち込めるカビと埃の匂いに、生々しい血の鉄臭さが混じり合い、楓の胃を強く刺激する。
佐野は嘲笑うように言った。その瞳は、狂気と愉悦でぎらついていた。まるで、楓の恐怖が佐野の生命力になっているかのようだった。佐野は、ナイフを楓の目の前でゆっくりと左右に振る。銀色の刃が、唯一差し込む薄明かりを反射し、ちらちらと不気味に瞬いた。
楓はもう振り返らなかった。彼女の目に映るのは、旧校舎の廊下へと続く、わずかに開いたドアだけだった。雨音は一層激しくなり、まるでこの部屋の惨劇を外に漏らさないように覆い隠しているかのようだった。楓は、全身の痛みを無視して、ただ、そのドアへと向かって走り出した。生きたい。そのたった一つの本能が、彼女の体を突き動かしていた。後ろから、佐野の足音が、獲物を追いかける獣のように迫ってくる。
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