新たな標的
佐野は、湿気を吸い込んだ制服が肌に張り付く不快感を、もはや気に留めていなかった。心臓の冷たい高鳴りが、彼女を突き動かす唯一の原動力となっている。放課後の喧騒が遠のき、人気のない廊下には、重く湿った空気が淀む。窓の外では、梅雨の雨が未だ勢いを衰えず降り注ぎ、校舎全体を灰色がかった陰鬱な色に染め上げていた。
教室の隅に転がっていた空席に思いを馳せるたび、佐野の脳裏には井川楓の姿が鮮明に浮かび上がる。井川。その存在が、全ての不条理と恐怖の根源なのだと、佐野は確信していた。
佐野は、誰もいない教室から静かに廊下へ出た。彼女の足音は、湿気を吸った床に吸い込まれるように、ほとんど響かなかった。目的はただ一つ。井川楓。どうでもいい存在として認識していたはずのその名が、今や呪文のように彼女の心を支配している。井川は、いつもならすぐに帰るか、あるいはどこかの教室で友人と世間話に興じているか。だが、今日の佐野には、その居場所を探し出すことに何の躊躇もなかった。彼女の歪んだ正義感が、迷いを許さなかった。
校舎の奥、普段はあまり生徒が寄り付かない薄暗い階段の踊り場で、佐野は井川楓を見つけた。窓から差し込む鈍い光が、彼女の横顔をぼんやりと照らしている。井川は、何の変哲もない学生鞄を膝の上に置き、ただぼんやりと外の雨を眺めていた。
その姿は、いつもと変わらず、人生を傍観しているかのような気だるさに満ちている。その無気力さが、佐野の神経を逆撫でする。この女が、自分たちをこの悪夢に引きずり込んでいる元凶だというのに、何と穏やかな佇まいだろうか。佐野の心に、冷たい憎悪が燃え上がった。
佐野は、井川に背後からゆっくりと近づいた。井川は、佐野の気配に全く気づいていない。あるいは、気づいていても、いつものように無関心を装っているだけなのかもしれない。そのことが、佐野の心にさらなる苛立ちを募らせた。佐野は井川のすぐそばに立ち止まった。
井川は、ようやく佐野の存在に気づき、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、いつもの気だるさに加えて、僅かな驚きと警戒の色が浮かんでいた。
「井川」
佐野の声は、湿った空気の中に冷たく響いた。それは、これまで井川に向けていた、形ばかりの社交辞令や、クラスのヒエラルキーを意識した上辺だけの声とは全く違うものだった。低く、感情のこもらない、しかし確固たる意志を秘めた声。井川の顔色が、僅かに強張った。
「…佐野さん?」
井川の声は、ひどく不安定だった。雨音と、遠くで聞こえる部活動の掛け声が、そのか細い声をかき消しそうになる。
佐野は、井川の顔を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、すでに憎悪と狂気の炎が宿っている。
「あんた、小夜の手紙、読んだんでしょ」
佐野の言葉は、突然の雷鳴のように、静寂を破った。井川の表情に、明らかに動揺の色が走る。目が見開かれ、唇が震えた。佐野は、その反応を見逃さなかった。やはり、この女は何かを知っている。知っていて、しらを切っているのだ。佐野の確信は、さらに深まった。
「手紙…?何の、話ですか…?」
井川は、か細い声で問い返した。その声には、戸惑いと、ほんの僅かな怯えが滲んでいる。まるで、自分の記憶の中から、佐野の言う「手紙」という単語を必死に探し出そうとしているかのようだった。しかし、井川の記憶に、雛川小夜からの手紙など存在しない。だから、彼女は心底から困惑していた。
「とぼけないで」
佐野の声が、さらに冷たさを増した。「雛川小夜が、あんたにどれだけ執着してたか、あんたが一番よく知ってるんでしょ。あの手紙には、全てが書かれていたわ。あんたへの、異常なまでの想いが。そして、それが、今、私たちを苦しめている元凶なんだってことも」
佐野の言葉は、井川の耳には全く理解できない、支離滅裂なものに聞こえた。雛川が自分に執着?手紙?元凶?何のことだろう。ただ、目の前の佐野から放たれる、尋常ではない憎悪のオーラだけが、井川の心をじりじりと焼き付けていく。彼女の脳裏に、かつての佐野の、自信に満ちた笑顔や、クラスの中心で輝く姿が蘇る。今の佐野は、まるで別人だった。
井川の心臓が、激しく鼓動を打ち始めた。いつもは、どんな場面でも冷静でいようとする彼女の心は、今、佐野の放つ攻撃的な感情に押しつぶされそうになっていた。喉が渇き、呼吸が浅くなる。冷たい汗が、背中を伝う。
「違う…私、何も知らない…本当に、何の事か…」
井川は、必死に否定しようとしたが、その言葉は途中で途切れた。佐野の瞳に宿る、狂気じみた光が、井川の言葉を遮ったのだ。
「嘘つき」
佐野は言い放った。「小夜がこの学校から離れられないのは、全部あんたのせいなんだよ。小夜の魂を、あんたが、その無意識で縛り付けているんでしょ。あんたの無関心が、小夜の執着を増幅させたんだ。あんたが、小夜の呪いの元凶なのよ」
佐野は、井川の肩を強く掴んだ。その指先が、井川の薄いシャツ越しに、肉体へと食い込むような痛みが走る。井川は、恐怖に目を見開き、佐野の顔を見上げた。佐野の顔には、今まで見たことのない、冷酷で、しかしどこか恍惚とした表情が浮かんでいた。それは、歪んだ使命感に突き動かされる人間の、純粋なまでの狂気だった。
「あんたがいなくなれば、全てが終わる。この呪いも、このクラスの重苦しい空気も、全てが解放されるんだ」
佐野の言葉は、井川の耳には直接的な殺害予告のように響いた。井川の全身を、冷たい恐怖が駆け巡る。今まで感じたことのない、生の終わりを予感させるような、本能的な恐怖だった。彼女の視界が歪み、佐野の顔が、悪魔のように変形して見えた。井川は、口を開こうとしたが、喉が張り付いたように声が出ない。全身が硬直し、逃げ出すこともできない。
佐野は、井川の震える瞳をじっと見つめ、ゆっくりと口角を上げた。その笑みは、勝利を確信した捕食者のように冷酷だった。湿った空気の中、佐野の瞳だけが、異常なほどの熱を帯びて輝いている。彼女は、井川を、雛川小夜の呪縛からクラスを解放するための生贄と見定めたのだ。そして、その決意に、微塵の迷いもなかった。
佐野は、井川の肩を掴んだまま、顔をさらに近づけた。井川の心臓が、耳元で激しく脈打つ。
「だから、あんたには、いなくなってもらう。死にたくなるまで追い込んであげる」
その言葉は、まるで氷の刃のように、井川の心臓を貫いた。佐野の指が、井川の肩を離れる。自由になったはずの体は、しかし、鉛のように重く、動かすことができない。佐野は、満足げな表情で井川から一歩後ずさった。その目は、すでに井川の死後の世界を見据えているかのようだった。
井川楓は、ただそこに立ち尽くし、全身から血の気が引いていくのを感じていた。外の雨は、まるで彼女の絶望を嘲笑うかのように、降りしきる音を強めていた。
井川楓は、ただそこに立ち尽くし、全身から血の気が引いていくのを感じていた。外の雨は、まるで彼女の絶望を嘲笑うかのように、降りしきる音を強めていた。
佐野の言葉は、井川の脳内で不気味な残響となって響き渡る。「この世界から、いなくなってもらう」。その意味が、皮膚の奥深くまで染み込み、細胞の一つ一つを凍てつかせていくようだった。喉の奥から、乾いたヒューという音が漏れる。呼吸がままならない。目の前で揺らぐ佐野の輪郭は、すでに人間的な形を失い、恐怖そのものの幻影に変わっていた。
「わかった?」
佐野が、囁くような声で尋ねた。それは命令であり、確認であり、そして何よりも、有無を言わせない絶対的な宣告だった。井川は、口を動かそうと試みたが、まるで糸が切れた操り人形のように、顎が震えるだけで、何の言葉も発することができない。
佐野は、その井川の無言の反応を、肯定と受け取ったようだった。彼女の口元に、満足げな、しかしどこか歪んだ笑みが広がる。その笑顔は、井川の知る「佐野愛」のそれとはかけ離れていた。冷たく、目的のために手段を選ばない、研ぎ澄まされた刃のような表情。
「そう。賢いあんたなら、きっとわかるはずよ」
佐野はそう言うと、井川から視線を外し、背を向けた。彼女の足取りは、先ほどとは打って変わり、力強く、迷いがなかった。湿った廊下に、カツン、カツンと乾いた靴音が響く。佐野は、一度も振り返ることなく、階段を降りていく。その姿は、まるで、不要なゴミを処理した後のように、何の後ろめたさも残していなかった。
佐野の姿が完全に視界から消え、足音も聞こえなくなった時、井川の張り詰めていた緊張の糸は、ぷつりと切れた。全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて必死に堪える。息を吸い込もうとするたびに、肺がひどく痛み、嗚咽が漏れた。
「…ひっ…ぐ、っ…」
彼女は、自分が泣いていることにすら気づかなかった。ただ、本能的な恐怖が、理性や思考を支配し、身体を震わせる。冷たい汗が、制服の下を流れ落ち、その不快感さえも、今の井川にはどうでもよかった。
佐野の言葉は、頭の中でエンドレスに繰り返される。
「あんたが、小夜の呪いの元凶なのよ」
「あんたがいなくなれば、全てが終わる」
「この世界から、いなくなってもらう」
雛川小夜の呪い?自分が元凶?全く身に覚えのない言葉の羅列が、鉛のように重く、井川の心にのしかかる。なぜ自分が、こんなにも強い憎悪と敵意を向けられなければならないのか。理解しようとすればするほど、思考は迷宮に迷い込み、絶望だけが深まっていく。
窓の外では、依然として激しい雨が降り続いていた。ザアザアという雨音は、いつの間にか井川の耳元で囁く佐野の声のように聞こえ始め、校舎全体を覆う陰鬱な空気が、まるで巨大な捕食者の胃袋のように、彼女を飲み込もうとしているかのようだった。この場所から逃げ出さなければ。そう思ったのに、足は地面に縫い付けられたように動かない。全身が、鉛のように重い。
井川は、震える手で膝の上の学生鞄を強く握りしめた。その感触だけが、かろうじて現実との繋がりを保つ唯一の拠り所だった。だが、握りしめるたびに、学生鞄が潰れていくような錯覚に襲われる。佐野の言葉が、彼女の平凡な日常を、一瞬にして壊し尽くしてしまった。
明日から、どうなるのだろう。佐野の言う「いなくなってもらう」とは、具体的に何を意味するのか。ただの脅しなのか、それとも、もっと具体的な、物理的な行動を伴うものなのか。そのどちらの可能性も、井川には想像することさえできない。ただ、目の前が真っ暗になり、深く、冷たい深淵へと引きずり込まれていくような感覚だけが、確かな現実として存在していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます