歪んだ解釈
佐野の指先は、便箋の切れ端を握りしめ、震えが止まらなかった。読み終えたはずなのに、目の奥に焼き付いた文字の羅列が、頭の中で何度も反芻される。そこには、歪んだ愛情と、狂気にも似た執着が、途切れ途切れではあるが、確かに綴られていた。雛川小夜の、井川楓への……。
まさか。そんなはずはない。
佐野は何度も心の中で否定した。雛川小夜は、クラスの誰もが認める孤高の存在だった。誰にも媚びず、誰とも深く関わろうとしない。その神秘的な佇まいは、佐野が最も嫉妬し、同時に憧れてすらいた側面だ。そんな彼女が、なぜ、平凡で目立たない、いわば自分の支配領域の外にいた井川楓に、ここまで深く、執拗な感情を抱いていたというのか。佐野の価値観からすれば、井川は「どうでもいい」存在、空気のように透明な存在だったはずなのに。
しかし、手紙に記された言葉の断片は、確かにそう告げていた。「あなたはただ」「受け入れて」「私にとって唯一の」「私と共に」――。そんな、井川への特別な感情を匂わせる言葉が、いくつも散りばめられていたのだ。文字の隙間から、小夜の途方もない孤独と、それを埋めようとしたかのような井川への一方的な、しかし強烈な感情が、佐野の脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。
佐野の脳裏に、小夜の、いつもの感情を読ませない無表情な顔が浮かんだ。その透き通るような肌、長い睫毛の奥に隠された冷たい瞳。誰も触れることのできない聖域のような存在。そして、その隣にはいつも、ぼんやりとした表情で周囲を傍観している井川楓の姿があった。佐野は井川を「どうでもいい」存在として認識していた。何の取り柄もなく、ただそこにいるだけの、空気のような存在。しかし、その空気が、小夜にとっての全てだったというのか。その事実に、佐野の胸に、嫉妬にも似た、しかしそれとは全く異なる種類の、黒い感情がじんわりと広がっていった。それは、自分の世界の秩序が崩されることへの不恐怖と、理解不能なものへの生理的嫌悪が混じり合った、不快な感覚だった。
手紙の破片を広げた机の上には、鉛色の空から降り注ぐ雨の音が、窓ガラスを叩く鈍い響きとなって届いている。湿った空気が教室に充満し、肌にまとわりつく。まるで、小夜の恨めしげな思念が、この閉鎖された空間にじっとりとした粘液のように染み渡っているかのようだ。佐野は、その粘液が自分の喉を締め付け、呼吸を奪っていくような錯覚に陥った。背筋に這い上がる冷たい悪寒は、もはや恐怖だけではなかった。憤り、苛立ち、そして何よりも、この状況から早く逃れたいという切実な願望が、彼女の心を占めていた。
「なんで……」
佐野は唇を噛み締めた。これでは全てが辻褄が合うではないか。小夜がこの教室に留まり、私たちを呪い続けているのは、井川楓がいるからではないのか? 小夜は、井川から離れたくなくて、この世に縛り付けられているのではないのか? あるいは、井川楓が、小夜の魂を、その無意識の領域で縛り付けている? どこまでも歪んだ、しかし佐野にとってはあまりにもしっくりくる、背筋が凍るような論理が、彼女の思考を支配し始めた。母親からの愛情不足が彼女に与えた自己中心性と、他者からの承認への渇望。その不安定な土台の上に、このおぞましい「真実」は、あまりにも容易く築き上げられていく。
これまでの不気味な現象、クラスに漂う陰鬱な空気、取り巻きの女子たちの虚ろな表情、そして何よりも佐野自身を苛む得体の知れない恐怖。全ては、井川楓が原因だ。井川が、小夜の感情を弄んだ結果だ。あるいは、小夜の執着を意図せずとも引き出してしまった結果なのだ。佐野の思考は、その一点に収束していく。井川楓という存在が、この悪夢の引き金であり、全ての元凶なのだと。
自分には何の非もない。悪いのは、何もかも、井川だ。彼女の抱える愛情不足による承認欲求は、他者を犠牲にしてでも自分の安寧を保とうとする冷酷なエゴへと変貌する。
佐野の心臓は、激しく鼓動を打ち続けた。それは恐怖の鼓動ではなく、ある種の覚醒を告げるかのような、冷たい衝動だった。手紙の内容は、小夜の井川に対する執着を確かに示唆していた。そして、その執着こそが、今、自分たちを苦しめている元凶なのだ。もし、小夜の執着の対象である井川楓がいなくなれば、小夜の霊は安らかになり、この悪夢も終わるのではないか?
佐野の瞳に、奇妙な光が宿った。それは、自己保身のために、あらゆる倫理観をねじ曲げていく人間の、恐ろしいほど純粋な輝きだった。小夜の死後、クラスの中心であった佐野の立場は揺らぎ、見えない呪いと恐怖に怯える日々。周囲の人間を支配し、自分の価値を肯定させてきた彼女にとって、この不穏な状況は耐え難いものだった。その全てから解放されるために、佐野は、最も容易で、最も残虐な「解決策」へと辿り着いた。
井川を殺せば、全てが終わる。
その結論に至った瞬間、佐野の全身から、先ほどまでの怯えが消え去った。代わりに、鉛のように重かった体が、奇妙なほど軽くなった。頭の中を覆っていた霧が晴れ、目の前の視界がくっきりと鮮明になる。それはまるで、長いトンネルの先に光を見出したかのような、歪んだ安堵感だった。自身の内面の不安や孤独を隠すために「強い自分」を演じてきた佐野にとって、この確信は、何よりも強固な心の支えとなった。佐野は、自分の中から湧き上がるこの確信に、微塵の疑いも抱かなかった。
井川楓を、殺す。
その言葉が、佐野の脳裏で、乾いた音を立てて響いた。それは、彼女の抱える愛情不足や承認欲求が生み出した、極端な自己中心性が行き着いた、あまりにも冷酷な結論だった。佐野は、手紙の破片を再び握りしめた。紙のざらついた感触が、手のひらに生々しく伝わる。微かにカビとインクの匂いが、その決意をさらに強固なものにするかのようだった。この手紙は、彼女に真実を告げた。そして、その真実が、彼女に「使命」を与えたのだと、佐野は信じて疑わなかった。
窓の外では、依然として雨が降り続いている。ごうごうと降りしきる雨音は、もう佐野の耳には届かなかった。彼女の視線は、教室の奥、井川楓が座っていたはずの空席へと向けられていた。今は誰もいないその席が、まるで井川の存在そのものを呪詛するように、暗い影を落としている。佐野の顔には、今まで見たことのない、冷たく、そしてどこか陶酔したような表情が浮かんでいた。その瞳の奥には、憎悪と、そして自己を正当化する狂気の炎が燃え盛っていた。
佐野の視線は、井川の空席に固定されたまま、微動だにしなかった。その椅子は、本来の持ち主を欠いたまま、まるで底なし沼のように佐野の意識を吸い込んでいく。井川楓。常に傍観者であり、何事にも無関心に見えたあの女が、まさか、小夜の、あの孤高の小夜の魂を、この世に繋ぎ止める鎖であったとは。
窓を叩く雨音は、いつの間にか、佐野の耳にはただの背景音と化していた。教室を満たす重苦しい湿気も、もはや彼女の肌に不快感を与えることはない。全身を支配していたあの得体の知れない寒気は影を潜め、代わりに、凍えるような、しかし揺るぎない確信が全身を駆け巡っている。この確信こそが、彼女を蝕む不安や恐怖から解放してくれる唯一の道なのだ。
握りしめた便箋の切れ端が、彼女の掌の中で汗ばんでいた。紙の繊維が指先に張り付く感触が、現実感を伴って佐野の脳裏に「真実」を刻み込む。小夜の、歪んだ筆跡。その一つ一つが、井川への執着を雄弁に物語っていた。佐野には見えていたのだ。井川の周りにまとわりつく、小夜の、憎悪にも似た、しかし純粋なまでの悲しい執念が。それはまるで、井川の影が小夜を永遠に幽閉しているかのようではないか。
佐野はゆっくりと椅子から立ち上がった。その動作は、まるで何かの儀式を行うかのように静かで、厳かだった。ひざの裏を走る僅かな痺れさえも、彼女の決意を揺るがすことはない。教室の隅々にまで染み付いた、湿った空気と、言いようのない陰鬱さが、この空間をさらに重くする。しかし、佐野の心の中には、一点の曇りもなかった。
どうでもいい存在だったはずの井川楓が、今や、この呪われた状況を作り出した張本人として、佐野の意識の中で異様なほどの存在感を放っていた。彼女は、単なるクラスメイトではない。佐野の世界の秩序を乱し、恐怖と混乱を撒き散らす、忌まわしい「元凶」なのだ。井川が消えれば、全てが解決する。佐野はそう信じた。小夜の魂は安らぎ、この教室に巣食う邪悪な気配も消え失せるだろう。そして、佐野自身の、揺らぎかけた地位も、取り戻せるはずだ。
佐野の唇が、ゆっくりと弧を描いた。それは薄く、しかし明確な笑みだった。冷たく、そして狂気じみた、自己満足に満ちた笑み。その顔には、今までのような取り繕った笑顔は微塵もなかった。ただ、使命感に燃える冷徹な捕食者の表情があった。どうやって? そんな具体的な方法は、まだ佐野の頭の中にはなかった。しかし、その行為が「正義」であるという歪んだ確信だけが、彼女を突き動かす原動力となっていた。佐野は、再び空席に目を向けた。その瞳は、獲物を狙う獣のようにギラついていた。そして、心の中で、その空席に座るべき「井川楓」に向けて、冷酷な宣告を繰り返した。
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